おしらせ


2014/10/28

A.Schacht(シャハト) Ulm Travenar(トラベナー) 90mm F2.8 R (M42)

トラベナーと言えば典型的にはシャハト社のテッサー型レンズに多く用いられるブランド名です。レンズの解説本で3群4枚構成という記述をみつけテッサータイプだと思い込んでしまった私は、eBayでレンズを目撃するたびに『中望遠のテッサー型レンズって、どんな写りなんだろう』などと興味を募らせていました。あるとき入手し実写してみたところ、テッサーらしくない優雅な写りに衝撃をうけてしまいます。ボケ味は美しく滑らかで、しかも四隅まで整然としていて、まるで絵画のようです。コントラストが良好なうえ階調はなだらかで中間階調が良く出ています。発色、ヌケともに申し分なく、私の知っているテッサー型レンズに対するイメージは良い意味で吹き飛んでしまいました。テッサー型にも凄いレンズがあるんですよなどと方々で言いふらしていたら、ネットで同社のカタログを見つけてしまいます。構成は3群4枚のテレ・ゾナー型でした・・・。凍った。
滑らかなボケ味と美しい発色が魅力の
人気中望遠レンズ
A.Schacht Ulm Travenar 90mm F2.8 R
A.Schacht社はAlbert Schacht(アルベルト・シャハト)という人物がミュンヘンにて創業したレンズ専門メーカーである。彼は戦前にCarl Zeiss, Ica, Zeiss-Ikon, Schteinhailなどに在籍し、テクニカルディレクターとしてキャリアを積んだ後、1948年に独立してA.Schacht社を創業、同社は1950年代から1960年代にかけてスチル撮影用レンズ、引き伸ばし用レンズ、プロジェクター用レンズ、マクロ・エクステンションチューブなどを生産している。なかでも主力商品はスチル撮影用レンズで、シュナイダーからレンズの生産を委託されたり、ライツからLeica Lマウントレンズの生産の正式認可をうけたりと同社は同業者からも高く評価されていた。A.Schacht社は1967年にConstantin Rauch screw factory に買収され、その後間もなくWill Wetzlar社に売却され消滅、レンズの生産は1970年まで続いていた。
今回紹介する一本はA.Schacht社の中でも大人気の中望遠レンズTravenar 90mm F2.8である。レンズの発売は1962年で対応マウントにはM42, Exakta, Leica L39に加え、Practina II, Minolta MDなどがある。レンズの構成は下図に示すような3群4枚のテレゾナータイプで、ZeissのLudwig Bertele(ベルテレ博士)が設計し、1932年にエルノスター型からの派生として設計したCONTAX SONNAR 135mm F4の流れを汲んでいる[参考1]。ただし、見方によってはダブルガウスの後群を屈折力の弱い正の単レンズ1枚で置き換えテレフォト性[注1]を向上させた省略形態とみることもできる。「レンズ設計のすべて」(辻定彦著)[参考2]にはテレゾナー型レンズについて詳しい解説があり、F2クラスの明るさを実現するには収差的に無理があるものの、F2.8やF3.5程度の明るさならば画質的に無理のない優れたレンズであるそうだ。なお、Travenar 90mm F2.8はゾナーの開発者L.Berteleが設計したという噂をよく目にし、証拠となる文献も提示されている[参考3]。Schachtは戦前のZeiss在籍時代からBerteleと親交があり、レンズ設計の協力を得られたのも、その頃からの縁のようだ。

注1:バックフォーカスを短縮させレンズを小さく設計できるようにした望遠レンズならではの性質で、レトロフォーカスとは逆の効果を狙っている。通常は後群全体を負のパワー(屈折力)にすることで実現するが、テレ・ゾナーやエルノスターなど前群が強大な正パワーを持つレンズでは後群側を弱い正パワー(屈折力の小さい凸レンズ)にするだけでも、ある程度のバックフォーカス短縮効果を生み出せる
参考1: Marco Cavina's Page:
参考2: 「レンズ設計のすべて」(辻定彦著) 電波新聞社 (2006/08)
参考3: Hartmut Thiele. Entwicklung und Beschreibung der Photoobjektive und ihre Erfinder,  Carl Zeiss Jena, 2. Auflage mit erweiterten Tabellen, Privatdruck Munchen 2007
Travenar 90mm F2.8の構成図。A.Schacht社のパンフレットからのトレーススケッチである。レンズ構成はエルノスターから派生した3群4枚のテレゾナー型である。正エレメント過多のためペッツバール和が大きく画角を広げるには無理があることから、中望遠系や望遠系に適した設計とされている。正パワーが前方に偏っている事に由来する糸巻き型歪曲収差を補正するため、後群を後方の少し離れた位置に据えている。望遠レンズは多くの場合、後群全体を負のパワーにすることでテレフォト性(光学系全長を焦点距離より短くする性質)を実現しているが、このレンズの場合にはErnostar同様に弱い正レンズを据えている。ここを負にしない方が光学系全体として正パワーが強化され明るいレンズにできるうえ、歪曲収差を多少なりとも軽減できるメリットがある。ただし、その代償としてペッツバール和は大きくなるので画角を広げるには無理がでる。後群を正エレメントにするのは別にかまわないが、これではテレフォト性が消滅してしまうのではないだろうか。実は前群の3枚が全体として強い正パワーを持つため、後群の正パワーが比較的弱いことのみでも全体としてテレフォト性を満たすことができるのである[文献2]

入手の経緯
2012年5月にeBayを介しチェコのカメラメイトから入手した。レンズは当初、即決価格250ドルで送料無料(フリーシッピング)の条件で出品されており、値下げ交渉を受け付けていたので230ドルを提案したところ私のものとなった。商品の状態については「コンディション(A)で、使用感は少なく完全動作」とのこと。カメラメイトはeBayに出店しているショップの中では比較的優良な業者なので、コンディション(A)ならば博打的な要素は高くはない。Travenar 90mmはSchachtのレンズの中でもここ最近になって中古相場が大きく上昇したレンズである。eBayでの相場は2014年11月時点でついに450ドルを超えてしまった。同社のレンズの中ではM-Travenar(マクロ・トラベナー) 50mm F2.8がこれまで最も高価なレンズであったが、現在はこのレンズが一番高価になっている。優れた描写力に加え、ベルテレが設計したという情報がそうさせたのであろう。

重量(実測)205g, フィルター径 49mm, 最短撮影距離 1m, 絞り値 F2.8-F22, 焦点距離 90mm, 絞り羽 16枚構成, 3群4枚テレ・ゾナー型, 1962年発売。レンズ名は「遠くへ」または「外国への旅行」を意味するTravelが由来である



撮影テスト
銀塩撮影 PENTAX MX + Fujicolor S400カラーネガ
デジタル撮影 Fujifilm X-Pro1 / Nikon D3
このレンズの特徴は何といっても穏やかなボケ味とシャハトらしい美しい発色である。解像感はマクロ域でやや甘くなるものの中距離以上では充分となり、開放でもハロやコマのないスッキリとヌケの良い写りである。コントラストは良好で色ノリも十分である。緑の発色が美しいのはシャハト製レンズの多くのモデルに共通する性質である。基本的にシャープな描写であるが絞っても階調の硬化は限定的で、なだらかな階調性を維持している。ボケは四隅まで整っており、滑らかなボケ味はまるで絵画のようである。穏やかな性質を備えた優れたレンズと言えるだろう。
F2.8(開放) Nikon D3 digital, AWB: このレンズのボケ味はどんな距離でも滑らかで美しい。忍び寄る夏の気配を写真に収めた

F2.8(開放)Fujifilm X-Pro1 digital, AWB: 開放でも解像感は充分のシャープな描写だし、階調描写も軟らかい。おまけにボケがたいへん美しい。実によく写るレンズだ
F5.6 銀塩撮影(Fujicolor 業務用S400カラーネガ): 最短撮影距離(1m)ではややソフトな写りである。本来は中望遠から望遠域で力を発揮するレンズなのであろう





F2.8(開放) 銀塩撮影(Fujifilm業務用S400カラーネガ):シャハト製レンズは発色が独特で、不思議な魅力がある



2014/10/23

Goerz Berlin DAGOR(ダゴール) 60mm F6.8 Rev.2

Dagorは古いデンマーク貴族の出身で27歳の数学者Emil von Hoegh(エミール・フォン・フーフ)[1865--1915]が1892年に設計した対称型レンズ(ダブル・アナスチグマート)である。HoeghはレンズのアイデアをGoerz社に売り込み、アイデアを採用したGoerzは翌1893年にDoppel-Anastigmat Series IIIの名称でレンズを発売している。このレンズは高性能だったので発売直後から飛ぶように売れ、現在に至るまで累計数十万本が出荷されたと推測されている。Dagorの大ヒットでGoerz社はドイツ最大級の大手光学機器メーカーへと大躍進を遂げている

ダゴール実写テスト Part 2
Goerz DAGOR 60mm F6.8

前エントリーで取り上げたDoppel-Protar(シリーズ7)はGoerz(ゲルツ)社の傑作レンズDagor (ダゴール)に対抗するためCarl Zeissが総力をあげて開発したレンズである。次回はいよいよDoppel-Protarを大判カメラでテストするが、その前にライバルのDagorにどれだけの実力が備わっていたのかを見ておきたくなった。いいタイミングなので焦点距離60mmのDagorを取り寄せ、デジタル撮影と銀塩フィルム撮影の双方からレンズの実写テストを行うことにした。Dagor 60mmは推奨イメージフォーマットが40mmのモデルに次いで小さく、カタログスペックによると35mm判よりやや大きく中判6x4.5未満となっている。フルサイズ機で用いるには、理想に近いモデルである。なお、Dagorについての詳細は本blogで過去にも取り上げているので、詳しくはそちらをご覧いただきたい。記事へのリンクはこちら
構成は2群6枚の対称型である。発売当時はF7.7であったが後に口径を広げF6.8とした。これ以上明るくはできないものの球面収差と色収差をきわめて良好に補正し、コマ収差、非点収差、歪みも良好に補正できるなど、欠点の少ないレンズである
Sony A7へのマウントにはM42-Sony EカメラマウントとM42ヘリコイドチューブ(25-55mm)を用いている。レンズに適合するフード(20mm径前後)が見当たらないので、北方屋のエルマー専用フード(19mm径)に簡単な細工をして用いている
入手の経緯
レンズは2014年9月にeBayを介し米国のコレクターから落札購入した。売り手には過去に4045件の取引履歴があり、落札者評価は100%ポジティブと優れたスコアがついていた。商品の解説は「レアなゲルツ・ダゴール60mm F6.8(グラフィック用シャッター)ボード付き」との触れ込みで「グレートプライスで出品している。優れた広角レンズであり、シャープネス、コントラスト、色再現性においてローデンストックのアポ・ロナーに匹敵する性能である。包括イメージフォーマットは大判4x5inchにギリギリ届かず、無限遠撮影時には四隅がケラれる。レンズの状態は素晴らしく、絞りの開閉はスムーズ、シャッターは全速正しく切れている。入手困難な小さな木箱(オリジナル)と2.5インチのグラフィック用ボードが付属している。この焦点距離のDAGORは滅多なことでは市場に出てこないのでお見逃し無く!」とのことである。これ以外に更に自己紹介があり、ついでに読んでみると「私は売買暦15年のコレクターで、これまで様々な撮影用機材を幅広く扱ってきた。専門は古い大判撮影用品である。一つ一つ丁寧に清掃し、私の経験と能力を最大限活かしたオークションの記述を心がけている。もし商品に満足しなかったり、あるいは記述との相違があるならば返品に応じる(到着から14日以内)。」とのことである。商品は当初350ドルの即決価格+送料45ドルで売り出されていた。値切り交渉を受け付けていたので、送料の分に相当する45ドル安くして欲しいと持ちかけたところOKとの返答。総額350ドルで私のものとなった。5日後に届いたレンズをチェックするとガラスの表面に油脂の汚れや指紋がタップリと付着しており、一瞬クモリがあるのではと不安になったが、丁寧に清掃したところガラスに問題は無く、拭き傷すらない極上品であった。
Goerz Dagor 60mm F6.8: 絞り羽 5 枚, フィルター径 20mm前後, 構成 2群6枚Dagor型, シリアルナンバー 766834(1945-1948年Goerz America製),  推奨イメージフォーマットは36mmx54mmで35mm判より大きく中判6x4.5未満[参考:Goerz American 1951 Catalog], Kodamaticシャッターに搭載, ステップアップリングとM42リバースリングを用いてマウント部をM42ネジに変換した



撮影テスト
設計は古いが銘玉と賞賛されてきただけのことはあり、やはりとんでもなく良く写るレンズである。階調描写はとてもなだらかで濃淡の微妙な変化をしっかりと捉え、とても雰囲気のある写真に仕上がる。ノンコートレンズであることを考慮し逆光時はハレーションの発生量に注意しなければならないが、うまく使いこなせればスッキリとヌケが良く、濁りの無い軽やかな発色である。収差的には大変優れており、開放でもハロや色にじみは全くみられず、コマも良好に補正されコントラストは良好である。35mm判カメラで使用する場合の解像力は私が過去にテストした焦点距離90mmや120mmのモデルよりも明らかに高く、緻密な描写表現が可能である。ただし、これは90mmや120mmのモデルが性能的に劣るという事ではなく、これらのレンズはより広いイメージサークルで最適な画質が得られるよう中央の解像力を落としても四隅の画質を重視しているからであり、大きなフィルムで用いれば60mmのモデルと同等の描写性能となっている。ボケは距離によらずよく整っておりグルグルボケや放射ボケなど像の乱れは全くみられない。逆光に弱いことと開放F値が暗いことを除けば、短所らしい短所の見当たらない大変優れたレンズである。

撮影機材
デジタル撮影 SONY A7
フィルム撮影(銀塩カラーネガ)FujiFilm Super X-tra400, Kodak Ultramax 400



F6.8(開放), sony A7(AWB): 階調はなだらかで濃淡の微妙な変化をしっかりと捉え、雰囲気のある写真になっている

F6.8(開放), sony A7(AWB):開放でもコマやハロはみられず、コントラストも良好。とてもいいレンズだ!!


F6.8(開放), Sony A7(AWB): 解像力は開放でもかなり高く、後ボケは四隅までたいへんよく整っている
F6.8(開放), 銀塩撮影(Fujicolor X-Tra400): 今度はフィルム撮影。やはりしっかり写る


F6.8(開放), 銀塩撮影(Kodak Ultramax 400): コントラストは良好。スッキリとヌケがよい写りだ
F6.8(開放), 銀塩撮影(Kodak Ultramax 400): うーん・・・。このレンズにコーティングは不要なのだろうか

やはり予感は的中した。焦点距離の短いDagorは35mm判カメラとの相性が良く、結像性能は良好で階調性能にも安定感がある。メーカーの推奨イメージフォーマットを守ることがどれだけ大事であるのかを強く実感することができた。機会があればフルサイズセンサーにジャストサイズのDagor 40mmもテストしてみたいのだが、このモデルは更に希少性が高く、中古市場に出回ることはまず無いと思われる。
日本にはDagorに心酔し、このレンズを数百本も収集しているコレクターがいると聞く。Dagorには人を惑わす何か特別な魅力があるのだろう。今回の実写テストを通して、このレンズに備わった素晴らしい性質の一端を垣間見ることができた。