おしらせ


2014/06/16

KMZ Orion-15 2.8cm F6(L39)




広い画角にわたり均一な画質を維持することのできる球形状のレンズは、広角レンズに適した設計とされている。このことはレンズの形状が完全に球であると仮定することで、光軸がどの方角にも定義できないことから容易に理解できる。一般にレンズの描写力は光軸の近く(写真中央)が良好で、そこから外れるほど(周辺部ほど)悪くなる。ならば、レンズが光軸の概念を捨てたとき、写真には一体何が写るのであろうか。無収差の世界か。それとも完全に破綻した世界か。おそらくそれは、この種の球形レンズを使った人にしかわからない。

左はCarl ZeissのTopogon(R.Richter設計)で米国特許Pat 2031792(1933)に掲載されていた構成図からのトレース・スケッチ、中央はKMZ製Orion-15の構成でthe 1st Soviet Camera Catalogue (1958)に掲載されていたものからのトレース・スケッチ、右はZOMZ製Orion-15の構成で同社のレンズカタログからトレースである
軸外光よ。どこからでもかかってきなさい!
KMZ Orion-15 2.8cm F6
Orion(オリオン)シリーズは旧ソビエト連邦(現ロシア)で光学技術の研究を統括するGOI (Gosudarstvennyy Optical Institute )という機関が1930年代から開発をすすめてきたTopogon(トポゴン)タイプの広角レンズである。Topogonと言えばZeissのRobert Richter(ロベルト リヒテル)が1930年代初頭に開発した4群4枚の対称型広角レンズで、優れた広角描写と歪み(歪曲収差)を極限まで抑えることのできる性質から、航空測量用カメラに搭載するレンズとして活躍した。GOIはロシアとドイツの国交が盛んだったドイツ・ワイマール共和国時代(1919~1933年)に両国間の技術協力の一環として、ドイツからTopogon F6.3の設計に関する技術支援をうけており、1930年代後半にはOrion-1A 20cm F6.3(30 x 30cm大判フォーマット)、Orion-2 150mm F6.3(18 x 18cm大判フォーマット, 1937年登場)の開発に至っている。両レンズとも航空測量に用いられた。
今回入手した一本はGOIが1944年に開発したOrion-15(オリオン15) 28mm F6である。レンズ名の由来はギリシャ神話の巨身美貌の狩人オリオンである。発売当初はKievマウント(旧Contax互換)のみに対応し、1944年から1949年にかけてごく少量のみが生産された。レンズの生産が本格化したのは1951年からで、KMZ(クラスノゴルスク機械工場; Krasnogorsk Mekanicheski Zavod)がOrion-15の生産をGOIから引き継ぎ、Kiev用(旧Contax互換)とFED用(Leica M39互換)の2種を再リリースしている。このレンズは登場後、建造物の撮影やパノラマ撮影の分野で活躍し、1959年に開催された第2回ソビエト連邦国民経済成果展示会(the 2nd degree diploma of the Exhibition of Achievements of the National Economy of the USSR)で優れた工業製品として表彰された。1963年頃からはZOMZ(ザゴルスク光学機械工場; Zagorsky Optiko-Mechanichesy Zavod)がレンズの生産を引き継いでいる。ZOMZによる生産がいつまで続いたのかは明らかになっていないが、中古市場に出回る製品個体のシリアル番号を私が調査した限りでは、少なくとも1978年まで製造されていた。なお、市場に流通している製品個体の多くはクローム鏡胴であるが、1966-1967年に生産されたブラックカラーモデルも少量ながら流通している。

参考: SovietCams.com
Topogonの米国特許: Pat 2031792(1933) by Robert Richter

重量(実測)62g, フィルター径 40.5mm, 絞り値 F6-F22, 絞り羽 7枚(開放でも絞り羽根が完全に開ききらないが、これで正常なのである), 最短撮影距離 1m, 対応マウント Fed(Leica L39互換)/Zorki(旧Contax互換),本品はFed用(L39), 構成 4群4枚Topogon型, 焦点距離 2.8cm, GOI製/KMZ製/ZOMZ製が存在する。解像力(フィルム中央点から0mm /10mm /20mm): 55 /35 /26 lpmm, 仕様書の公式記載解像力(中央/周辺):45/18 lpmm, 光透過係数:0.8, けられ(周辺光量落ち):67%






入手の経緯
本品は2014年5月5日にeBayを介しウクライナのセラーから即決価格249ドルで購入した。オークションの解説は「EXC++。硝子はパーフェクトのOrion-15。外観は9/10点、光学系は前玉・後玉とも10/10点のパーフェクトな状態」とのこと。ベークライト製のケースと前後のキャップが付属していた。商品は当初24980円のスタート価格でヤフオクに出品されており「ウクライナからの発送」とあった。私を含む3人がこの商品に対し入札したが30500円で競り負けた。仕方なしにeBayで同一品を探したところ、なんとシリアル番号と写真が全く同一の商品が250ドルの即決価格で出ていた。そこで、こちらを落札したわけだ。出品者には発送前にシリアルを確認するようにと釘をさすことにした。1週間後に届いた品は写真と同一のシリアル番号をもつ個体で、記述どおりにガラスはとてもいい状態であった。eBayでの中古相場は250ドル前後、ヤフオクでの相場は3万円程度であろう。この手の転売屋がどういうシステムで動いているのか気になるところだが、おそらくヤフオクでの落札者の元には異なるシリアルの製品個体が届くなど何らかの影響があったに違いない。誰が犠牲になったのかはわからないが、一歩間違えればそれは自分であった。

撮影テスト
Orion-15の描写の特徴は四隅まで解像力が良好で、歪みはほぼなく、色収差、像面湾曲、非点収差が十分に補正されていることである。口径比がF6と控えめなため球面収差とコマ収差は無理なく補正でき、開放でも滲みは見られずにスッキリとヌケのよい写りである。階調描写は軟調系で絞ってもコントラストは控えめであるが、そのぶん中間階調は豊富にでており、逆光時においてもシャドーは潰れにくい。周辺光量落ちが顕著にみられるという事前情報を得ていたが、実写に影響がでるほど光量落ちが気になるようなことはなかった。カタログスペックでも中央部に対し四隅で67%の光量落ちと解説されている程度なので、あまり心配する程の事でもなさそうだ。逆光にはそこそこ耐え条件が悪いとゴーストはでるものの、フレア(グレア)まで発展することはない。絞りに対する画質の変化は殆どなく、正直に言ってしまえば面白みに欠けるが、レンズグルメなら一度は体験してみたい類のレンズではないだろうか。以下作例。Camera: Sony A7(AWB)
F11, sony A7(AWB): 逆光にはそこそこ耐え、グレア(内面反射由来のフレア)は出にくい。おもいきり逆光での撮影だが、シャドーは潰れず中間階調は依然として豊富に出ている


F11, sony A7(AWB): あぁ困った。四隅までキッチリ写っている。ヌケは良い。やはり、このタイプのTopogon型レンズは建造物を撮るのに適している。よくわかった




F6(開放),sony A7(AWB): ヘリコイドアダプターにて最短撮影距離を強制的に短縮させた。ボケは安定している

F6(開放), sony A7(AWB): 球体鏡を写しているので、さすがにこれでは像が歪む








2014/05/29

LZOS Jupiter-12 35mm F2.8 (L39)




大きく突き出た後玉が
レンズマニアたちの心をグラグラ揺さぶる
ロシア版ビオゴン:
Jupiter-12 35mm F2.8
Jupiter-12(ユピテル12/英語名はジュピター12)はロシアのKMZ(クラスノゴルスク機械工場)が1950年に発売したBiogonタイプの広角レンズである。巷ではZeissのLudwig Bertele (ベルテレ博士)が1936年に設計したContax版Biogon 35mmをそのままコピーしたレンズ(デットコピー)と誤って解釈されることが多いが、厳密にはBiogonの設計を簡略化した新開発のレンズであるBiogonの持つ線の太い描写、高いコントラスト、ヌケが良く色鮮やかな発色、穏やかで安定感のあるボケを受け継ぎ、Berteleが世に送り出したもう一つの名玉Sonnar(ゾナー)を彷彿とさせる描写設計である。BiogonはZeissのBerteleが1931年に設計したContax版Sonnarから発展したレンズである(下図)。Sonnarには画角を広げ過ぎると非点収差が急激に増大するという収差的な弱点があり、標準~中望遠には対応できるものの、広角レンズを実現するには基本設計に大幅な改良を施す必要があった。Sonnarの性質を維持しながら、同時にこのレンズの弱点を克服することがBiogonの開発に至ったBerteleの動機である。Berteleは研究を重ね、Sonnarの最後尾に巨大な後玉を据え付けるという新しい着想に辿りついたのである。
 

 
Sonnar(上段・左)からJupiter-12(下段・右)に至る光学設計の系譜。こうして並べ比べてみると、Jupiter-12は確かにBiogonをベースに造られたレンズであることがよくわかる。我々の良く知るContax版Sonnarは上段・左に示すようの前群側に3枚接合ユニットを持つ設計形態であるが、Jupiter-12やBiogonの大半のモデルでは、この部分がガウスタイプと同じ2枚接合ユニットへと簡略化されている。構成図出展:Biogonの構成図はBerteleが出願した一連の特許資料からトレースした。また、KMZ BK-35は文献[1]からのトレース、Jupiter-12はレンズ購入時に付属していたマニュアル資料からのトレースである

 
Jupiter-12は1950年にKMZ社が発売し、Leicaスクリュー互換のZorki(ゾルキー)用と旧Contaxマウント互換のKiev(キエフ)用の2種が市場供給された。初期のモデルはクローム鏡胴のみで1960年からはブラックカラーも登場している。1958年にはLZOS(ルトカリノ光学硝子工場/Lutkarinskij Zavod Opticheskogo Stekla)とArsenalがレンズの生産に参入し3社による生産体制となるが、3年後の1961年にKMZとARSENALは同レンズの生産から撤退、これ以降はLZOSによる単独生産となっている。現在の中古市場に流通しているレンズはLZOS製の製品個体が大半で、KMZ製はやや少なく、Arsenal製を目にすることは極稀である。市場にはZorki用とKiev用の2つのモデルが流通しており、1950年代~1970年代に生産されたクローム鏡胴のバージョンと1970年代~1980年代に生産された黒鏡胴バージョンの2種に大別できる。最後まで製造が続いたのはLZOS製の黒鏡胴バージョンである。私が市場に流通しているレンズのシリアル番号を片っ端から調査した感触によると、レンズの生産は少なくとも1991年まで続いていた。
なお、記録によるとJupiter-12にはBK-35 (Biogon Krasnogorsk 35/1947-1950年)という前身モデルが存在し、ZeissのBiogonをベースにドイツ産の硝材を用いて設計されたと記されている[1,2]。構成図をみるとBK-35の光学系は後群・第一レンズの曲率が妊婦のお腹のように大きく膨らんでおり、Biogon(1937)からJupiter-12へと移行する過渡的な設計形態になっていることがわかる。

参考文献・WEBサイト
[1] КАТАЛОГ фотообъективов завода № 393(ZenitのHPに掲載)
[2]SovietCams.comJupiter-12 )
[3] Marco Cavina’s wonderful HP: marcocavina.com

入手の経緯
本レンズは2013年8月にeBayを介しポーランドのレンズ専門セラーから110ドル+送料10ドルの即決価格で落札購入した。オークションの解説では「ガラスはMINTコンディション。ミラーレス機でテスト済だ。フォーカスリングと絞りリングの回転はスムーズで、絞り羽に油染みはない。硝子に傷、クリーニングマーク、クモリ、バルサム切れ等の問題はない。前後のキャップとケースが付属する」とのことである。届いた品は鏡胴に少し汚れがあり、前玉にクリーニングマークが1本あった。ホコリは経年相応で清掃が必要なほどでもない。この程度の相違は織り込み済みなので、私には十分な状態であった。eBayでの相場は状態の良い個体で100ドル前後である。未使用と思われるデットストック品が現在でも数多く流通しているので、焦らずにジックリと選び、良いものを手に入れるとよいであろう。なお、Arsenalの製造したモデル(1958-1961年生産)、KMZの製造した黒鏡胴モデル(1960-1961年生産)、および初期のKMZ BK-35(1947-1950年生産)は希少価値が高く、上記の相場価格は当てはまらない。最近はロシアやウクライナの一部のセラーがJupiter-12の名板のみをすげ替えたBK-35の模造品を売り出しているので、注意したほうがよい。ちなみに模造品のeBayでの相場は200~250ドル程度である。
Jupiter-12: 最短撮影 1m, フィルター径 40.5mm, 絞り羽 5枚, 重量(実測) 100g,  焦点距離 35.7mm,  絞り指標 F2.8-F22, 構成 4群6枚 (戦前のBiogon前期型), 63年製, メーカー LZOS(ルトカリノ光学硝子工場), 解像力 36 line/mm (中央) 18 line/mm (コーナー)。なお、レンズ名の由来はローマ神話の最高至上の神の名ユピテル
撮影テスト
Jupiter-12はコントラストが高く、鮮やかな発色とシャープな写りを特徴とするレンズである。解像力は平凡で線は太いものの、開放から滲みやフレア(収差由来)は少なく、スッキリとヌケのよい描写である。ただし、絞っても階調はなだらかで適度な軟らかさを維持している。ボケは四隅で半月状に崩れコマ収差の発生を確認できるが、中間画角までは整っており柔らかく拡散している。グルグルボケ、放射ボケ、2線ボケなどの乱れは検出できない。開放では発色が極僅かに温調気味になることもあるが、絞れば安定し概ねノーマルである。内面反射が少ないようで、逆光にはそこそこ耐え、ゴーストやグレア(内面反射光の蓄積に由来するハレーション)は出にくい。広角レンズには珍しい糸巻き状の歪曲がみられるものの通常の撮影で目立つことはない。全体的にみて、とても安定感のあるレンズといえるだろう。なお、フルサイズセンサーを搭載したミラーレス機(sony A7)で使用すると、画像の端の方にマゼンダ色の色被りが見られることがある。これはカラーシフトと呼ばれるデジタル・ミラーレス機に特有の現象で、バックフォーカスが短かいレンズや後玉径が小さいレンズを用いる際、センサー面に急角度で入射する光に対して赤外線カットフィルターの効きが弱くなるために起こる現象である。バックフォーカスが最も短くなる遠方撮影時において特に顕著になる傾向がある。一回り小さなAPS-Cセンサーのカメラでは目立つことはなく、銀塩フィルム機では全く問題にはならない。

Camera: sony A7
撮影: 伊豆大島(2014年5月3--5日)

タイトル「油断」, F8(上) /F8(下, APS-C crop-mode), sony A7(AWB): 上段の写真では左右の端部に若干のマゼンダ被りがみられる。これはバックフォーカスが短いレンズをフルサイズミラーレス機で用いる際に、赤外線カットフィルターの効きがセンサー周辺部で弱くなるために起こる現象である。APS-Cサイズにクロップした下段の写真では全く目立たなくなる
F2.8(開放), sony A7(AWB): 開放でもスッキリとヌケの良い写りである。後ボケは穏やかで柔らかく、四隅までよく整っている。グルグルボケや放射ボケは見られず2線ボケも検出できない
F4, sony A7(AWB): 滲みはまったく見られず発色はとても鮮やか。シャープなレンズだ
F5.6, Sony A7(AWB): 開放でのショットはこちら。いずれもコントラストは高く発色は鮮やかである。ただし、絞っても階調は適度に軟らかい

F11, Sony A7(AWB): フォーカスポイントを人物にとり、パンフォーカスで撮影している。遠方撮影で空が入ると、やはりマゼンダ被りが目立つようになる。本レンズの場合、後玉が大きく飛び出しているためか、この傾向は絞っても改善しない。四隅では若干の解像力不足を感じるが、引き伸ばさなければ判らない。伊豆大島にある火山灰の堆積でできた地層断面













F8, sony A7(AWB): マゼンダ被りや周辺光量落ちは遠方撮影時に特に顕著にあらわれる現象である。これくらいの撮影距離までなら全く目立たない。うちの娘・・・一体何がしたいのだ


BiogonとSonnarは言わば親戚関係にあるため、写りが似ているのはごく当たり前と考える方も多いかもしれない。しかし、Sonnarだった頃の形質は後群の第一レンズ(構成図の中に黄色く着色した部分)のみであり、もはや別設計のレンズと捉える方が妥当である。むしろ、興味深いのは設計の異なるBiogonとSonnarの写真描写に高い類似性がみられる点である。Berteleの発明した設計というだけで、どうしてここまで写りが似ているのだろうか。我々が目の当たりにしているのは写真レンズの描写に対し設計者ベルテレが貫いた揺るぎない理念なのかもしれない。ロシア版BiogonのJupiter-12にも、こうしたベルテレの描写理念が忠実に受け継がれているのである。