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2020/03/08

Bausch and Lomb PHOTOMATON 75mm(3inch) F2





Matonox Night-Camera
レンズを供給したのはボシュ・ロム!!!
Bausch and Lomb PHOTOMATON 75mm(3inch) F2
ドイツのC.P.Goerz(ゲルツ)社が1925年頃に試作したMatonox Night-Cameraという35mm判のカメラに搭載されていたレンズが、今回紹介するPhotomaonフォトマトン)75mm F2です[1]。同社は1926年にIca, Ernemann, Contessa-Nettel社と合併しZeiss Ikon社の設立母体となることで消滅していますので、このカメラが発売されることはありませんでした。実在するMatonox Night-Cameraに搭載されたPHOTOMATONにはメーカー名が記されておらず、レンズはカメラ同様にC.P.Goerz社が開発したものだと思われていましたが、不可解だったのは搭載されいるシャッターを供給したのがドイツのDeckel社ではなく米国のILEX(アイレクス)社であったことと、ゲルツはF2クラスの明るいレンズを自社生産するための特許を保有していなかった事です。カメラとレンズは当時、夜間での手持ち撮影を可能とし報道写真の世界に衝撃を与えたエルネマン社のエルマノックス(レンズはエルノスター)に対抗するために開発されました。
ある時このカメラの謎に対する突破口が開けました。知り合いの方からBausch and Lomb(ボシュ・ロム)社の刻印の入ったPhotomatonの存在を教えてもらい、なんと現物を預かったのです。ILEX社はBausch and Lomb社から派生したシャッター製造メーカーで、言わば生みの親のような存在です。レンズはシャッターと共に米国で開発されていたのです。
    
Bausch and Lomb PHOTOMATON 75mm F2(M42改造済): フィルター径 45mm, 絞り値 F2-F16, 設計構成 4群4枚スピーディック型, ILEX製シャッター, GOERZ Matonox Night Canera(スチル用35mmフォーマット)に供給。前群の鏡胴部側面にPhotomatonの刻印、フィルター部の名板には確かにBausch and Lombのメーカー名が刻印されています
 
今回お借りしたレンズは知り合いの方がレンズ単体の状態でeBayから入手したもので、カメラは付属していませんでした。その後、直進ヘリコイドに載せM42レンズとして使用できるよう改造したとのことです。レンズにカビ、クモリなどなく、直ぐに使用できる良好な状態でした。レンズ構成は3枚玉のトリプレットからの発展形として1924年にLeeが考案した4群4枚構成のspeedicタイプです(下図)。収差的にはあまり良い評価がありませんが明るさと立体感のある画作りを特徴とし、バックフォーカスを長く取れる点が長所で、ドイツのAstro社が高級シネマ用レンズに積極的に採用した設計構成です。たいへん貴重なレンズであることに疑いの余地はありません。
  
典型的な4群4枚のSPEEDIC型の設計構成。左が被写体側で右がカメラの側。絞りは第2レンズの直ぐ後ろに配置されています

参考文献・資料
[1]ドイツのオークションハウス”Auction Team Breker”から2008年にMatonox Night-Cameraが1台出品されています
[2]oldlens.com: Bausch and Lomb 3inch:設計構成のよく似たBausch and Lomb社製のレンズがあるという情報をいただきました。ありがとうございます。本レンズと何か関係がありそうです
 
撮影テスト
近接からポートレート域ではフレアの少ないスッキリとした描写で、コントラストはこの時代のノンコートレンズとしては良好ですが、良像域は中央部のごく限られた領域のみとなります。ボケは若干のグルグルボケが見られピント部間際で放射ボケも出ますので、非点収差がそれなりに残存している様子です。ただし、激しい像の流れには至りません。一方、遠景になるとフレアが多くなり、開放では十分な解像感が得られませんので、通常は絞って使うことになります。ポートレート撮影向きのレンズだと思います。

F2(開放) SONY A7R2(WB:日陰)置きピンで撮りました。この位では少し滲みます(シャツの★印に注目)


F2(開放) SONY A7R2(WB:日陰)近づくほど、スッキリと写るようになり・・・


F2(開放) SONY A7R2(WB:日陰)このくらいのポートレート域が一番シャープに写ります。距離によっては背後に少しグルグルボケが発生しまので、非点収差がまぁまぁ残存しているようです
F11 SONY A7R2(WB:日陰)











F5.6 sony A7R2(WB:日光) こちらも絞ってとった結果ですが、遠方をとる場合、少なくともこの位は絞らないと厳しいです。開放になるとフレアが多く、解像感の得られるのはごく限られた領域だけになります(こちら


2017/07/17

C.P. GOERZ Berlin DOGMAR 60mm F4.5 (Rev.2)

ゲルツ社のレンズといえばE.フーフ(Emil von Hoegh)が1892年に設計した名玉ダゴール(DAGOR)が定番中の定番だが、このドグマー(DOGMAR)もポートレート用レンズとして忘れてはならない存在であろう。ドグマーには後に「空気レンズ」とよばれる画期的なレンズユニットが導入されており、このユニットの助けを借りることで諸収差を合理的に補正することが可能になっている。レンズを設計したのは同社のショッケとアバンで1913年の事。ショッケは後にマクロスイターで有名なケルン社(スイス)の光学部門を立ち上げる人物である[0]。

歴史の淀みを漂う珍レンズ達 part 3
しっとりとしたハレーションが光輝く

軟調系オールドレンズ
C.P. GOERZ Berlin DOGMAR 60mm F4.5 (改定Rev.2)
空気レンズ(Luft Linsen)とはレンズをより明るくするために導入されてきた設計法の一つで、2枚のレンズの間に狭い空気間隔を設け、本来は何も無いはずの空間部分を屈折率1のレンズに見立てることで、球面収差を効果的に補正するというものである。この方法は1953年に登場するズミクロン(Leitz社)に採用されたことで広く知られるようになり、日本製の大口径レンズにも積極的に導入された。空気レンズのアイデア自体は19世紀末頃に登場しており、独学でレンズの設計法を身に付けゲルツ社を成功に導いたE.フーフ(Emil von Hoegh)も、1898年に明るいアナスティグマート(Doppel-Anastigmat Series IB F4.5)を開発する過程の中で空気レンズのアイデアに到達している[1]。フーフの設計したSeries IBは1903年に同社のW.ショッケ(Walther Zschokke)とF.アバン(Franz Urban)による再設計を経て、ガラス硝材に改良を施したツェロー(Celor)へと発展した[2]。ショッケらはツェローの改良を続け、レンズの前後群を焦点距離の異なる準対称にすることで、遠方撮影時に問題となっていたコマ収差の抑制にも成功、1913年にポートレート撮影への適性を高めたドグマー(Dogmar) F4.5を完成させている[3]。
レンズの設計は下図に示すようなダイアリート型とよばれる形態で、僅か4枚の少ない構成ながらも諸収差を十分に補正できるテッサーのような合理性を持つ。ただし、屈折力を稼ぎにくい性質のため、口径比は明るくてもf4.5あたりが限界であった。ガラスと空気の境界面が8面とこの時代のレンズにしては多く、ハレーションが出やすいのは、このレンズの大きな特徴でもある。古いレンズの描写にみられる独特の「味」や「におい」。現代のレンズが高性能なコーティングを纏うことで、かえって失ってしまったものを、このレンズは呼び覚ましてくれる。
Celor(左)とDogmar(右)の構成図トレーススケッチ(上が前方): 両レンズは一見全く同じに見えるが、Celorは前群と後群が同一構成の対称型であるのに対し、Dogmarは僅かに焦点距離の異なる準対称型である。いくつかの書籍にCELOR/DOGMAR型レンズの設計手順のヒントが掲載されているので、簡単にまとめておこう。まずはじめに正の凸レンズと負の凹レンズを狭い空気層を挟んで配置し、これら光学ユニットの外殻の曲率を非点収差が0になるように与える。次に、凸レンズのガラス屈折率を凹レンズのそれよりも大きくすることで、光学ユニットに新色消しレンズと同等の作用を持たせ軸上色収差を補正する。こうしてできる1対の光学ユニットを絞りを挟んで対称に配置し、歪曲と倍率色収差、コマ収差(メリジオナル成分)を自動補正する。続いて、空気レンズの発散作用を利用し球面収差を補正する(Celorが完成)。この設計の最大のポイントは新色消しレンズの効果を持ちながら同時に球面収差が容易に補正できるところにある。本来は硝材の選択に頼り一筋縄にはいかないところが、空気レンズの導入により容易に補正できるようになっているのだ。ただし、光学ユニットが空気層を持つ対称型レンズの場合には遠方でサジタルコマが補正されないという弱点があるので、ポートレート用や風景用のレンズを作る場合には前群と後群を準対称にすることで、これを改善させる。CELOR(図・左)からDOGMAR(図・右)が生み出された過程がこれにあたる。前後群を準対称にすることでコマフレアを抑制する方法は、1897年に登場したツァイスのプラナー(初期型)で既に実践されている








C.P. GOERZ Berlin DOGMAR 60mm F4.5: 絞り 13枚構成, 設計構成 4群4枚ダイアリート型, 定格イメージフォーマットは中版645, ノンコートレンズ, レンズのマウントネジは34mm径でおそらくネジピッチは1mmだが、中国製ステップダウンリングのファイジなネジがこれを受け入れてくれたので、M42ヘリコイド(11mm-17mm)を間に挟みカメラ側をライカスクリュー(L39)に変換して使用することにした




製品ラインナップ
ドグマーはツェロー(1904年に登場)とともに1915年の米国ゲルツ社のカタログに掲載され、新型レンズとして紹介されている[3]。カタログでは60mmから300mmまで焦点距離の異なる12のラインナップ2+3/8インチ(6cm)、3インチ(約7.5cm)、4インチ(約10cm)、5インチ(約13cm)、5+1/4インチ (13.3cm)、6インチ(約15cm)、6+1/2インチ(16.5cm)、7インチ(約18cm) 、8+1/4インチ(21cm)、9+1/2インチ(24cm) 、10+3/4インチ(27cm)、12インチ(約30cm) (F5.5)を確認することができる。ツェローがスタジオ撮影や製版・コピーなどに最適と記され、近接域を中心にポートレート域までの近距離撮影に向いているのに対し、ドグマーはグラフィックアートや風景撮影に最適であると記されており、近接域から遠距離までの広い範囲をカバーできるレンズとなっている。

参考文献等
[0] 「写真レンズの歴史」ルドルフ・キングスレーク著 朝日ソノラマ
[1]  Doppel-Anastigmat Ser. Ibのレンズ特許:Pat. DE109283 (1898)
[2]  Celorのレンズ特許: US Pat.745550  Celorでは凸レンズに用いられていた高価なバリウム・クラウン硝子が低コストで気泡が少なく光の透過率の高いケイ酸塩クラウン硝子へと置き換えられ、コスト的にも性能的にも前進した
[3] 米国GOERZ社レンズカタログ(1915):新型レンズDOGMARについての解説がある。
 
入手の経緯
日頃お世話になっている工房の職人さんへのプレゼントとして、友人3人と共同で購入したのが今回紹介する金色レンズである。DOGMARのような古典鏡玉が活躍した時代は大判カメラが主流であったため、60mmもの短い焦点距離のレンズはステレオカメラ等の特殊用途向けに少量のみ生産された。このくらい短い焦点距離になると現代のデジタルカメラでも無理なく使うことができ魅力的であるが、市場に出回る機会は極希で決まった相場もない。本品は2017年4月にeBayを介して米国のセラーから落札した個体である。届いたレンズはガラスの状態が非常によいものの、経年のため絞り羽の重なる部分がやや浮き上がってしまう持病があり、この隙間が僅かに光漏れを起こすことがわかった。古いレンズなので交換用の部品もなく、実用に支障がなければ、このまま使うのが良い。このような問題は経年を経たレンズ一本一本が持つ個性みたいなもので、それぞれの個体でしか撮れない独特の描写をつくりだしている。

撮影テスト
ドグマー60mmの定格イメージフォーマットは中版645辺りなので、一回り小さなフルサイズ機にマウントしても、画質的には無理なく使用することができる。レンズを真夏日に用いたところ、開放にてハイライト部分の周りに美しいハレーションが発生し、しっとり感の漂う素晴らしい写真効果が得られた。ピント部は開放からスッキリとしていてヌケがよく、像は四隅まで安定している。背後のボケも四隅まで安定しており、フルサイズ機での使用時による不完全な検証ではあるが、グルグルボケや放射ボケは全く見られなかった。解像力の高いレンズではないが、軟調であることに加えフレアが全く出ないこともあり、ピント部はどことなく密度感を感じさせる美しい仕上がりとなる。不思議な魅力を持ったレンズである。少し絞った辺りからスポットライトのような帯状のハレーションが発生することがあったが、これはこのレンズの絞りにやや持病があるためで、この個体にしかない個性となっている。
軟調系オールドレンズの良さを200%堪能できる素晴らしい描写力、そして、ドグマ―というどこか宗教めいた妖しいネーミングは、このレンズの大きな魅力であろう。自分用にもう1本欲しくなってしまった。
F4.5(開放), Sony A7Rii(WB:日陰) + Techart LM-EA7(AFアダプター)  すっ・・・。

F4.5(開放), Sony A7Rii(WB:日陰) + Techart LM-EA7(AFアダプター)  すばらしい!



約F6.3(少し絞る), Sony A7Rii(WB:日陰) + Techart LM-EA7(AFアダプター) 


F4.5(開放), Sony A7Rii(WB:日陰) + Techart LM-EA7(AFアダプター)  このレンズの写りには解像力では言い表せない不思議な臨場感がある





F6.3, Sony A7Rii(WB:日陰) + Techart LM-EA7(AFアダプター) 光の捉え方がとても美しいレンズだ
F4.5(開放), Sony A7Rii(WB:日陰) + Techart LM-EA7(AFアダプター)  

2014/10/23

Goerz Berlin DAGOR(ダゴール) 60mm F6.8 Rev.2

Dagorは古いデンマーク貴族の出身で27歳の数学者Emil von Hoegh(エミール・フォン・フーフ)[1865--1915]が1892年に設計した対称型レンズ(ダブル・アナスチグマート)である。HoeghはレンズのアイデアをGoerz社に売り込み、アイデアを採用したGoerzは翌1893年にDoppel-Anastigmat Series IIIの名称でレンズを発売している。このレンズは高性能だったので発売直後から飛ぶように売れ、現在に至るまで累計数十万本が出荷されたと推測されている。Dagorの大ヒットでGoerz社はドイツ最大級の大手光学機器メーカーへと大躍進を遂げている

ダゴール実写テスト Part 2
Goerz DAGOR 60mm F6.8

前エントリーで取り上げたDoppel-Protar(シリーズ7)はGoerz(ゲルツ)社の傑作レンズDagor (ダゴール)に対抗するためCarl Zeissが総力をあげて開発したレンズである。次回はいよいよDoppel-Protarを大判カメラでテストするが、その前にライバルのDagorにどれだけの実力が備わっていたのかを見ておきたくなった。いいタイミングなので焦点距離60mmのDagorを取り寄せ、デジタル撮影と銀塩フィルム撮影の双方からレンズの実写テストを行うことにした。Dagor 60mmは推奨イメージフォーマットが40mmのモデルに次いで小さく、カタログスペックによると35mm判よりやや大きく中判6x4.5未満となっている。フルサイズ機で用いるには、理想に近いモデルである。なお、Dagorについての詳細は本blogで過去にも取り上げているので、詳しくはそちらをご覧いただきたい。記事へのリンクはこちら
構成は2群6枚の対称型である。発売当時はF7.7であったが後に口径を広げF6.8とした。これ以上明るくはできないものの球面収差と色収差をきわめて良好に補正し、コマ収差、非点収差、歪みも良好に補正できるなど、欠点の少ないレンズである
Sony A7へのマウントにはM42-Sony EカメラマウントとM42ヘリコイドチューブ(25-55mm)を用いている。レンズに適合するフード(20mm径前後)が見当たらないので、北方屋のエルマー専用フード(19mm径)に簡単な細工をして用いている
入手の経緯
レンズは2014年9月にeBayを介し米国のコレクターから落札購入した。売り手には過去に4045件の取引履歴があり、落札者評価は100%ポジティブと優れたスコアがついていた。商品の解説は「レアなゲルツ・ダゴール60mm F6.8(グラフィック用シャッター)ボード付き」との触れ込みで「グレートプライスで出品している。優れた広角レンズであり、シャープネス、コントラスト、色再現性においてローデンストックのアポ・ロナーに匹敵する性能である。包括イメージフォーマットは大判4x5inchにギリギリ届かず、無限遠撮影時には四隅がケラれる。レンズの状態は素晴らしく、絞りの開閉はスムーズ、シャッターは全速正しく切れている。入手困難な小さな木箱(オリジナル)と2.5インチのグラフィック用ボードが付属している。この焦点距離のDAGORは滅多なことでは市場に出てこないのでお見逃し無く!」とのことである。これ以外に更に自己紹介があり、ついでに読んでみると「私は売買暦15年のコレクターで、これまで様々な撮影用機材を幅広く扱ってきた。専門は古い大判撮影用品である。一つ一つ丁寧に清掃し、私の経験と能力を最大限活かしたオークションの記述を心がけている。もし商品に満足しなかったり、あるいは記述との相違があるならば返品に応じる(到着から14日以内)。」とのことである。商品は当初350ドルの即決価格+送料45ドルで売り出されていた。値切り交渉を受け付けていたので、送料の分に相当する45ドル安くして欲しいと持ちかけたところOKとの返答。総額350ドルで私のものとなった。5日後に届いたレンズをチェックするとガラスの表面に油脂の汚れや指紋がタップリと付着しており、一瞬クモリがあるのではと不安になったが、丁寧に清掃したところガラスに問題は無く、拭き傷すらない極上品であった。
Goerz Dagor 60mm F6.8: 絞り羽 5 枚, フィルター径 20mm前後, 構成 2群6枚Dagor型, シリアルナンバー 766834(1945-1948年Goerz America製),  推奨イメージフォーマットは36mmx54mmで35mm判より大きく中判6x4.5未満[参考:Goerz American 1951 Catalog], Kodamaticシャッターに搭載, ステップアップリングとM42リバースリングを用いてマウント部をM42ネジに変換した



撮影テスト
設計は古いが銘玉と賞賛されてきただけのことはあり、やはりとんでもなく良く写るレンズである。階調描写はとてもなだらかで濃淡の微妙な変化をしっかりと捉え、とても雰囲気のある写真に仕上がる。ノンコートレンズであることを考慮し逆光時はハレーションの発生量に注意しなければならないが、うまく使いこなせればスッキリとヌケが良く、濁りの無い軽やかな発色である。収差的には大変優れており、開放でもハロや色にじみは全くみられず、コマも良好に補正されコントラストは良好である。35mm判カメラで使用する場合の解像力は私が過去にテストした焦点距離90mmや120mmのモデルよりも明らかに高く、緻密な描写表現が可能である。ただし、これは90mmや120mmのモデルが性能的に劣るという事ではなく、これらのレンズはより広いイメージサークルで最適な画質が得られるよう中央の解像力を落としても四隅の画質を重視しているからであり、大きなフィルムで用いれば60mmのモデルと同等の描写性能となっている。ボケは距離によらずよく整っておりグルグルボケや放射ボケなど像の乱れは全くみられない。逆光に弱いことと開放F値が暗いことを除けば、短所らしい短所の見当たらない大変優れたレンズである。

撮影機材
デジタル撮影 SONY A7
フィルム撮影(銀塩カラーネガ)FujiFilm Super X-tra400, Kodak Ultramax 400



F6.8(開放), sony A7(AWB): 階調はなだらかで濃淡の微妙な変化をしっかりと捉え、雰囲気のある写真になっている

F6.8(開放), sony A7(AWB):開放でもコマやハロはみられず、コントラストも良好。とてもいいレンズだ!!


F6.8(開放), Sony A7(AWB): 解像力は開放でもかなり高く、後ボケは四隅までたいへんよく整っている
F6.8(開放), 銀塩撮影(Fujicolor X-Tra400): 今度はフィルム撮影。やはりしっかり写る


F6.8(開放), 銀塩撮影(Kodak Ultramax 400): コントラストは良好。スッキリとヌケがよい写りだ
F6.8(開放), 銀塩撮影(Kodak Ultramax 400): うーん・・・。このレンズにコーティングは不要なのだろうか

やはり予感は的中した。焦点距離の短いDagorは35mm判カメラとの相性が良く、結像性能は良好で階調性能にも安定感がある。メーカーの推奨イメージフォーマットを守ることがどれだけ大事であるのかを強く実感することができた。機会があればフルサイズセンサーにジャストサイズのDagor 40mmもテストしてみたいのだが、このモデルは更に希少性が高く、中古市場に出回ることはまず無いと思われる。
日本にはDagorに心酔し、このレンズを数百本も収集しているコレクターがいると聞く。Dagorには人を惑わす何か特別な魅力があるのだろう。今回の実写テストを通して、このレンズに備わった素晴らしい性質の一端を垣間見ることができた。

2013/03/15

GOERZ BERLIN Doppel-Anastigmat CELOR 130mm F4.8 and DOGMAR 100mm F4.5
ゲルツ ドッペル・アナスティグマート セロール/ドグマー




銘玉Dagor(ダゴール)を設計しGoerz(ゲルツ)社の主任設計士となったEmil von Hoegh(エミール・フォン・フーフ)[1865--1915]はDagorよりも更に明るく、室内撮影やポートレート撮影に強い大口径ダブルアナスティグマートの設計にとりかかった。Hoeghは光学ユニットに「空気レンズ」と呼ばれる革新的なアイデアを導入し球面収差の補正力を強化した新型レンズを開発、1899年にDoppel-Anastigmat Series IB(ドッペル・アナスティグマート・シリーズIB)の名で世に送り出している。このレンズは当時の大判撮影用レンズとしては極めて明るい口径比F4.5を実現している。シリーズIBは1904年に同社のW.Zschokke(W.ショッケ)らによる再設計でCelor(セロール)とArtar(アーター)へと置き換わり、更に1913年の再設計ではコマの補正を強化したDogmar(ドグマー)へと進化している。

空気レンズを導入した
ゲルツ社の大口径アナスティグマート

空気レンズ(Luft Linsen)とはレンズをより明るくするために導入されてきた設計技法の一つで、ガラスとガラスの間に狭い空気層を設け、本来は何も無いはずの空間部分を屈折率1のレンズに見立てることで設計に自由度を与え、球面収差を効果的に補正するというものである。この技法は1953年登場のズミクロンM(Leitz社)に採用されたことで広く知られるようになり、後の日本製大口径レンズにも積極的に導入されている。空気レンズのアイデア自体は19世紀の末頃に登場しており、独学でレンズの設計技法を身に付けたEmil von Hoeghも大口径アナスティグマート(Doppel-Anastigmat Series IB F4.5)を開発する試行錯誤の過程の中で同等のアイデアに到達している[Pat. DE109283 (1898)]。Hoeghの設計したSeries IBは1903年に同社のWalther Zschokke(W.ショッケ)とFranz Urban(F.アバン)によって再設計され、凸レンズに用いられていた高価なバリウム・クラウン硝子が低コストで気泡が少なく光の透過率の高いケイ酸塩クラウン硝子へと置き換えられた(US Pat.745550)。この時にレンズ名もCelor(セロール/ツェロー)へと改称され翌1904年に再リリースされている。Zschokkeはその後もCelorを改良し、困難だったコマの補正にも成功、1913年に後継製品となるDogmar F4.5を世に送り出している。
下の図は1904年に発売されたCelor(セロール/ツェロー)F4.5と、後継レンズとして1913年に発売されたDogmar(ドグマー) F4.5の断面である。凸レンズと凹レンズの間に設けられた狭い隙間が空気レンズである。CelorとDogmarは一見同一の構成にも見えるが、Celorは前群と後群の光学ユニットが絞りを中心に完全対称であるのに対し、Dogmarは前群の屈折力がやや後群側に移され対称性が破れている。


Celor F4.5(左)とDogmar F4.5(右)の構成図(Goerz American Opt. Co.1915年のカタログより引用)
Celorの設計方法は至ってシンプルである。まず正の凸レンズと負の凹レンズを狭い空気層を挟んで配置し、これら光学ユニットの外殻の曲率を非点収差が0になるように与える。次に、凸レンズのガラス屈折率を凹レンズのそれよりも大きくすることで、前・後群それぞれの光学ユニットに新色消しレンズと同等の作用を持たせ軸上色収差を補正する。こうしてできる1対の光学ユニットを絞りを挟んで対称に配置し、歪曲と倍率色収差、コマ収差(メリジオナル成分)を自動補正する。ただし、光学ユニットが空気層を持つ場合、サジタルコマ収差は補正されない。最後に空気レンズの発散作用を利用し球面収差を補正する。空気レンズの形状を調整し球面収差が最も小さくなる最適解を探索することでレンズの大口径化を実現するのである。この設計の最大のポイントは新色消しレンズの効果を持ちながら同時に球面収差が容易に補正できるところにある。本来は硝材の選択に頼り困難なところが空気レンズの導入によって可能になっているのである。
Celorはシンプルな構成で諸収差を合理的に補正できる高性能なレンズであるが、遠方撮影時に顕著に発生するコマのため風景撮影には向かず、同社のDagorほど万能ではなかった。この問題に対し、Zschokkeは前群の正レンズの屈折力を僅かに後群側の正レンズにシフトさせる事でコマの抑制が可能になることを発見、Celorの更なる改良と万能化に成功し、1913年に新型レンズDogmar F4.5を完成させている。
Series IBに始まりDogmarの登場によって収差的に完成の域に達したCelor/Dogmar型レンズではあるが、空気レンズの導入により空気とガラスの境界面が8面とこの時代のレンズにしては多く、階調描写力では同社のDagor(ダゴール)には及ばなかった。境界面の数を抑えることはコーティング技術が確立されていない時代のレンズ設計において非常に重要な事であり、各境界面で発生する内面反射光の蓄積がコントラストや発色、シャープネスなどの階調描写力に甚大な影響を与えてしまう。この問題を解決するコーティング技術の普及はDogmarの開発から30年以上も後の事である。もしもDogmarが造られた時代にコーティング技術があったなら、Goerz社のフラッグシップレンズの座はDagorからDogmarに置き換わっていたかもしれない。


参考文献
・「レンズ設計のすべて」辻定彦著(電波新聞社)
・「最新写真科学大系・第7回:写真光学」山田幸五郎著 誠文堂新光社
Goerz Lenses(Official catalog in 1915), C.P.Goerz American Opt. Co.
・R. Kingslake, A History of the Photographic Lens

Doppel anastigmat Series IB Celor 130mm F4.8:シリアル番号 Nr 186073(1900-1908年に製造されたCelorの初期ロット), 真鍮製バーレルレンズ, 絞り値は無表記, フィルター径:不明(改造により43mmに変換されている), 構成は4群4枚, ガラス面にコーティングのないレンズである 

Dogmar 10cm F4.5: シリアル番号 591405(1922-1923年の製造ロット), Zeiss-Ikon製ダイアルコンパー式シャッター搭載(コンパー0番), シャッタースピード:1/250s--1s, 絞り値:F4.5--F36, フィルター径:28mm, 構成は4郡4枚の変形Celorタイプ。ガラス面にコーティングのないノンコートレンズである。M42リバースリングとステップアップリングを使用し無改造でM42へと変換している。レンズ名はラテン語で「信条」を表すDOGMAが由来


製品ラインナップ
Celorは1898年に開発されたDoppel Anastigmat Series IBの後継レンズとして1904年から市場投入されている。広角から超望遠まであらゆる焦点距離に対応できる融通の利く設計であり、1913年のGoerz社のカタログには焦点距離の異なる14の製品ラインナップが掲載されている。焦点距離ごとに列記すると、2+3/8インチ(約6cm) F4.5、3インチ(約7.5cm)F4.5、3+1/2インチ(約9cm)F4.8、4+3/4インチ(約12cm)F4.8、6インチ(約15cm) F4.8、7インチ(約18cm)F4.8、8+1/4インチ(約21cm) F5、9+1/2インチ(約24cm) F5、10+3/4インチ(約27cm) F5、12インチ(約30cm) F5.5、14インチ(約35cm) F5.5、16+1/2インチ(約42cm) F5.5、19インチ(約48cm) F5.5がある。また、Kodak製等の小型カメラ向けに5インチ(約13cm) F4.8も供給されている。これに対し、Dogmarは1915年の米国Goerz社のカタログに新型レンズとして紹介されており、焦点距離の異なる12のラインナップが掲載されている。焦点距離ごとに列記すると、2+3/8インチ(約6cm)、3インチ(約7.5cm)、4インチ(約10cm)、5インチ(約13cm)、5+1/4インチ (約13.3cm)、6インチ(約15cm)、6+1/2インチ(約16.5cm)、7インチ(約18cm) 、8+1/4インチ(約21cm)、9+1/2インチ(約24cm) 、10+3/4インチ(約27cm)、12インチ(約30cm) (F5.5)などがある。カタログにはCelorがスタジオ撮影や製版、コピーなど近接域からポートレート域の撮影に向いていると紹介されているのに対し、Dogmarはグラフィックアートや風景撮影に最適と記載され、近接域から遠距離まであらゆる距離に向いていると紹介されている。このあたりは遠方撮影時にコマの出るCelorに配慮した解説なのであろう。

入手の経緯
Dogmar 100mmは2013年1月にeBayを介してハンガリーの写真機材業者から落札購入した。商品ははじめ135ドルで出品されていた。商品の状態については「Very Good Conditionのドグマ-。中古だが素晴らしい。シャッターは全てのスピードで適切に動作する。硝子はクリアーだ。鏡胴は少し使用感がある。絞りはパーフェクトに動作する。コレクターやフォトグラファーにオススメする。」とのこと。スマートフォンの自動スナイプソフトで入札締め切り5秒前に155ドルで入札したところ誰と競り合うこともなく開始価格のまま私のものとなった。送料込みの価格は160ドルである。届いた品は経年にしては良好。ただし、写りに影響の無い程度で小さなキズとホコリの混入がみられた。安かったのでこれで良しとしよう。
続いてCelor 130mmは2012年11月にオールドレンズ愛好家のlense5151(レンズこいこい)さんからお借りした。lense5151さんはDagorでもお世話になっている。浮き世離れした写りを追い求める方のようで、Celorについては「温泉のような写りが楽しめる(笑)」などと謎めいたコメントを添えていた。

撮影テスト

CANERA:  EOS 6D
LENS HOOD
  Celor: ステップダウンリング(43mm-30mm)+望遠レンズ用フード(30mm
  Dogmar:望遠用メタルフード(28mm径)

Celorの特徴は遠方撮影時にコマが発生しヌケが良くない事と、空気とガラスの境界面の数が8面とノンコートレンズとしてはやや多く、内面反射光が蓄積しやすいことである。コントラストは低下気味で軟調、発色も淡く、遠方撮影時ではハイライト部のまわりがモヤモヤとソフトな描写になる。しかし、これらを除けば収差的には性質が良く、ピント部には高い解像力が実現されている。凹凸レンズの数の比が2:2とバランスしていることから非点収差の補正は容易で、像面を平らにしたまま四隅まで高い解像力を維持できる。フルサイズセンサーのカメラによる不完全な評価ではあるがグルグルボケや放射ボケもほとんど見られない。後ボケは概ね整っているが、像が硬めでザワザワと煩くなることがある。ハイライト部を肉眼で拡大チェックする限り色滲みなどは認められず、定評どうり軸上色収差の補正効果は良好のようである。近接撮影時のヌケは悪くない。
Celor 130mm F4.8@F4.8(開放)+EOS 6D AWB:  温泉的な描写効果とは、このことなのだろうか。開放では遠方撮影時にコマが顕著に発生する。拡大すると良く分かるので上の鬼瓦の部分を拡大し下に提示する
上の写真の一部を拡大したもの。ハイライト部のまわりがモヤモヤとソフトでヌケが悪い。こういう妖しい描写は女性のヌードを撮るのには適している。遠方撮影でヌード作品が成立するかどうかは別として、こういう描写表現も悪くはない
Celor 130mm F4.8@F4.8(開放)+EOS 6D(AWB): 近接撮影の方がヌケは良いようだが、開放ではまだモヤモヤ感が残っているようで、椅子の背もたれなどが妖しい雰囲気を醸し出している。後ボケは硬くザワザワとしている

Celor 130mm F4.8@F4.8(開放)+EOS 6D(AWB): 手前の掲示板にもコマが盛大に発生している。その影響で全体的にコントラストも下がり気味だ


Celor 130mm F4.8@F6.3(目測)+Nikon D3, AWB: 近接撮影時のヌケは悪くない。少し絞るだけでスッキリとシャープに写り、解像力も良好だ



 
続くDogmarであるが、温調で味わい深い発色傾向が印象的なレンズだ。コマについてはGoerzの1915年のカタログに記載されているとうり、Celorよりも発生量が少なくヌケは良い。その分だけコントラストも高く、Dagorほどではないものの風景撮影においてもスッキリとシャープに写る。もちろん現代のレンズに比べれば軟調でコントラストは低く、シャープネスも強くない。解像力はDagorを上回る印象をうけるが階調描写力では一歩及ばない。ノンコートレンズなので逆光撮影には弱く、コンディションが悪いと盛大なフレアが発生する。今回はフレアを上手く生かした作例にもトライしてみた。
Dogmar 100mm F4.5@F4.5 + EOS 6D, AWB: このとおり黄色に被る温調気味の発色傾向だ


Dogmar 100mm F4.5@F6.3 + EOD 6D, AWB: 肖像権に配慮しレタッチで人相を変えてある。階調描写はたいへん軟らかい。遠方撮影時もハイライト部からはコマが出ずヌケはCelorよりも良いようだ

Dogmar 100mm F4.5@F4.5 + EOD 6D, AWB:  ピント部は開放から高解像でよく写る。改造力はDagorを上回る印象である
Dogmar 100mm F4.5@F4.5 + EOD 6D, AWB: レタッチで人相を変え個人が特定できないよう にしてある。逆光で盛大に発生するフレアが温泉の湯煙ような演出効果を生み出す。この効果を強調させたいならば、ハイライト気味に撮影するとよい
Dogmar 100mm F4.5@F4.5 + EOD 6D, AWB: 色飽和とフレアを生かし、妖狐のあやしい雰囲気を演出している。オールドレンズならではの写真効果であろう


Dogmar 100mm F4.5@F8+EOS 6D, AWB: CelorやDogmarは軸上色収差が非常に小さく、製版やコピーに利用されることも多かったようである。このとおりになかなかの描写である

2013/01/22

GOERZ BERLIN, Doppel-Anastigmat DAGOR 90mm F6.8 and 120mm F6.8
ゲルツ ドッペル・アナスティグマート・シリーズIII(ダゴール)


まるで蒸気機関車の一部であるかのような2本の真鍮製レンズ。これらは1893年にドイツ帝国のGoerz(ゲルツ)社がDoppel Anastigmat Series III(ドッペル・アナスティグマート・シリーズIII)の名で世に送り出し記録的なヒット商品となったDagor(ダゴール)である。これまでに数十万本が生産され史上最も成功したレンズの一つと称えられている。Dagorの登場以来、写真用レンズの歴史は本格的なアナスティグマート時代に入っていった

アナスティグマート時代の幕開けを象徴する
ゲルツ社の傑作レンズ

難度の高い非点収差(アスチグマ/Astigma)を封じることで、ついにはサイデルの5収差全てに対する補正を実現した上級レンズのカテゴリーを昔はアナスティグマート(Anastigmat)と呼んでいた。現代のレンズも含め19世紀以降に登場した写真用レンズは、ほぼ全てがアナスティグマートである。この種のレンズとして黎明期に登場したものには1890年にCarl ZeissのRudolph(ルドルフ)が設計したProtar(プロター)や1893年に英国Cooke(クック)のTaylor(テイラー)が設計したTriplet(トリプレット)などがある。中でも特に高い人気を呼んだアナスティグマートが1893年に発売されたDAGOR(Doppel Anastigmat GOeRzの略)である。Dagorは登場後たちまち人気を博し、軍への納入を中心に4年間で3万本を売るという信じられない記録を打ち立てている。Goerz社はDagorのヒットで急成長を遂げ、1889年に僅か25名だった従業員の数は1901年に1000名、1914年には3000名にまで増え、第一次世界大戦中には12000名を突破している。レンズを設計したのは古いデンマーク貴族出身で27歳の数学者Emil von Hoegh(エミール・フォン・フーフ)[1865--1915]と呼ばれる人物である。Hoeghは独学でレンズの設計法を身につけ1892年にサイデルの5収差を全て補正できる新型レンズ(Dagor)のアイデアを考案した。彼はこのアイデアをはじめ大会社のCarl Zeissに売り込んだが取り合ってもらえなかったので、今度は創業6年目にあたるGoerz(ゲルツ)社に売り込んだのだ。同社の創設者Carl Paul Goerz(カール・ポール・ゲルツ)がHoeghの試作レンズをテストしたところ高性能だったので、すぐにレンズの特許をとり[3]、Hoeghを少し前に死去した設計主任Carl Moserの後任に抜擢したのである。実績もない若いHoeghの隠れた才能を見抜いたGoerzの洞察力は非常に優れたものであった。当時のGoerz社は前任者のMoserが設計したリンカイオスコープの製作に取り組んでいた。しかし、リンカイオスコープは旧来からのラピット・レクチリニア型レンズのコピーであり、ダルマイヤー社、シュタインハイル社、フォクトレンダー社などが先行商品を世に送り出していたため、後発のGoerz社が優位にたてる要素には乏しかった。そんな矢先に訪れたMoserの死去、新型レンズのアイデアを携えやってきたHoeghの加入、Dagorの記録的なヒットなど運命的な出来事が立て続けに起こり、Goerz社は事業規模を急速に拡大、ドイツ最大級の光学機器メーカーにまで成長したのである。

参考資料
[1] A History of the Photographic Lens(写真レンズの歴史), Kingslake(キングスレーク) 著
[2] ハヤタ・カメララボ 今月の一枚2012年12月:ロール・テナックス ダゴール
[3] Dagorの米国特許: Patent DE 74437(1892), U.S.Patent 528155(1894) Emil Von Hoegh, Carl Paul Goerz
[4] レンズ設計のすべて 辻定彦著  電波新聞社


Dagorの光学系(1892 Emil Von Hoegh)をトレースしたもの。設計構成は2群6枚の対称型で、左半分が前群、右半分が後群(カメラ側)となる。空気と硝子の境界面を僅か4面しか持たないという特異な構成のため内面反射光の蓄積が起こりにくく、更にハロやコマなどが殆ど出ないこともあり、戦前のノンコートレンズとしては抜群の高いコントラスト性能を実現している

ドッペル・アナスティグマート
ドッペルとはドイツ語のダブルに相当する語である。Dagorのレンズ構成が上図のように中央の絞り羽を挟んで対称の構造を持つ事を意味している。この種の対称型レンズにはコマ収差(M成分)、倍率色収差、歪曲収差が自動的に消滅するというアドバンテージがある。コンピュータによる設計法の無かった時代では、この性質を利用することが有効な設計手段の一つであった。アナスティグマートの登場まで一世を風靡していたフォクトレンダー社のラピット・レクチリニアも対称構造をもつレンズであり、Dagorはこのレンズの発展型と考えられている。Hoeghが対称型レンズの開発に熱中していたことは彼がGoerz社在籍中に設計したHypergon(ハイパーゴン)Doppel Anastigmat Series IB(Celorの原型)などのレンズ構成からも明らかである。
Kingslakeの著書にはDagorの設計手順の一部始終が掲載されており、Dagorが「サイデルの5収差」の全てを攻略したアナスティグマートであることを改めて確認することができる。設計法を要約すると、まず正負正の順に配置した3枚の貼り合わせレンズを用意し、その最外殻の曲率半径を非点収差が0になるように与える。次に内部の2枚の貼り合せ面の一つで球面収差を補正し、残る一つの面で像面湾曲を補正する。こうして出来る貼り合せレンズを2セット用意し絞り羽を挟んで対称に配置することで、残る収差(コマ収差、倍率色収差、歪曲収差)を自動消滅させるのである。収差表を見ると球面収差、軸上色収差、倍率色収差の補正効果は素晴らしく、非点収差、歪曲、コマ収差の補正レベルも良好である。中心解像力とコントラストが非常に高く、画角を広げても良好な画質が得られるなど、口径比が明るくできないことを除けば収差的には欠点のほぼない優秀なレンズであることがわかる(文献[4])。


Doppel Anastigmat Series III 120mm F6.8(推奨イメージフォーマット 3.5x4.5 inch): 真鍮製バーレルレンズ, フィルター径 28mm, 絞り羽 10枚構成, 絞り値 F6.8-F32, 光学系は2群6枚, シリアル番号からレンズの製造は19世紀末(1896-1899年頃)となる。希少価値の高い初期のレンズだ。この頃のレンズにはまだDagorの名が刻まれていない。レンズ名がDagorに改称されたのは1904年からである。市販の部品をいろいろ組み合わせマウント部をM42ネジに変換している
Dagor 90mm F6.8(推奨イメージフォーマット 3x3 inch): ダイアルコンパー型シャッターを搭載, フィルター径 20mm前後, 絞り羽 10枚 , 絞り値F6.8-F32, 光学系は2群6枚, シリアル番号からレンズの製造年は1915-1918年頃(第一次世界大戦中)であることがわかる

製品ラインナップ
Dagorは1892年に開発され、翌1893年にDoppel Anastigmat Series IIIの名で登場している。発売当初は口径比がF7.7であったが、後に焦点距離12インチ以下のモデルが全てF6.8へと変更され、名称の方も1904年からDagorへと変更されている。レンズは軍への納入を中心に売れまくり、発売から4年で3万本、累計でも数十万本が出荷された。Dagorの設計は広角から超望遠まであらゆる焦点距離に対応できる万能性を備えており、1913年のGoerz社のカタログには焦点距離の異なる19もの製品ラインナップが掲載されている。このうち広角レンズの焦点距離1+5/8インチ(約4cm)、2+3/8インチ(約6cm)、3インチ(約7.5cm)、3+1/2インチ(約9cm)の4製品については主にステレオカメラ向けの製品として市場供給された。一般撮影用レンズとして大判カメラ向けに供給されたモデルは焦点距離4+3/4インチ(約12cm)、6インチ(約15cm)、7インチ(約18cm)、8+1/4インチ(約21cm)、9+1/2インチ(約24cm)、10+3/4インチ(約27cm)、12インチ(約30cm)、およ14インチ(約35cm) F7.7、16+1/2インチ(約42cm) F7.7、19インチ(約48cm) F7.7、24インチ(61cm) F7.7、30インチ(76cm) F7.7、35インチ(約89cm) F7.7の13種である。また、Kodak製等の小型カメラ向けに焦点距離5インチ(13cm)と6+1/2インチ(約16.5cm)の2種も供給されている。ただし、焦点距離が78mm、80mm、83mmなどカタログには掲載されていない個体も数多く出荷されていた。焦点距離の規格が不徹底なのは光学系を組み上げるまで焦点距離がどうなるか判らなかったからで、Goerz社はレンズを組み上げ一定の性能基準をクリアした製品ロットに対して改めて一本一本の焦点距離を計測し、その結果を製品のスペックとしてレンズに表記していたのだ。なお、ステレオカメラ向けに供給されていた先の広角の4製品も1921年にGoerz社がRoll-Tenaxと呼ばれるロールフィルム式の中判カメラを発売したことで、一般撮影用レンズとして供給されるようになった。

入手の経緯
焦点距離90mmのDagorは2012年11月にeBayを介して米国カリフォルニアの個人出品者「ブラックス2」から落札購入した。この売主は販売実績が2737件で落札者評価が100%、ニュートラルの評価すら無いという好成績者である。扱っている商品は殆どが写真機材であった。商品の解説は「4x4inchのボードに搭載されていた小さなダゴール。焦点距離は3と1/2インチで絞り値はF6.8である。グレートコンディションだ。硝子は完全にクリアで傷や拭き傷はない。シャッターはすべての速度で正常に作動しハングアップはない。ただし、若干スロースピードになる事はあるかもしれない。たまにしか市場に出てこないとてもナイスなレンズだ。商品がこの記述と異なる場合には受け取り後14日以内であれば完全返金する。」とのこと。商品は85ドルのスタートで売り出され、私を含め6人が入札した。最大価格を233ドルに設定し、自動入札ソフトでスナイプ入札したところ201ドル(送料込みの総額では218ドル)で私のものとなった。届いた品は外観・ガラスとも経年を考えると素晴しい状態であり、強い光を通すと極軽いスポット状のヤケが2~3個見られる程度であった。Dagorはプライスリーダーのカメラメイトが長焦点のものを250ドル(送料込み)で売りだしているので、このあたりが中古相場なのであろう。ただし、焦点距離90mmのモデルは珍品なので、この値段で入手できたのはラッキーである。
続いて焦点距離120mmのDagorは2012年11月にオールドレンズ愛好家のL51さんからお借りした。L51さんは当初私に浮き世離れした写りが楽しめる別系統のレンズをすすめていた。今回お借りしたDagorに対しては「良く写りすぎてガッカリするかもしれない(笑)」とのことである。所持されているレンズ同様に、写りに対する価値感も人並み外れた持ち主のようだ。
焦点距離120mmのDagorはフランジが長いのでヘリコイドにマクロエクステンションチューブを継ぎ足している
DAGOR 90mmのフード問題
今回入手した2本のDagorはガラス面にコーティングが敷設されていないノンコート仕様のレンズであり、撮影時にはフードの装着が必須となる。Dagor 120mmはフィルター径が28mmなのでステップアップリングを介して市販のフードが装着可能であるが、Dagor 90mmの方はフィルター径が20㎜前後の特殊径となっているため、市販のフードやレンズキャップはおろかステップアップリングすら装着できない。そこで、北方屋が880円で販売しているエルマー専用の特製マイクロメタルフード(フィルター径19mm)を使用することにした。下の矢印で示すようにハサミで細長く切った薄いポリエチレン板をフィルターのネジ切りの部分に鉢巻きのように巻き付け1mmの隙間を埋めるのである。ポリエチレン板の末端は瞬間強力接着剤で留めている。ここで用いたポリエチレン版は商品の包装に使われていたものである。ちなみにクリアフォルダーのポリエチレン素材では厚みが足りなかった。

北方屋のエルマー50mm専用マイクロメタルフード(フィルター径19mm)。矢印のようにポリエチレン板を細長く巻き末端を瞬間協力接着剤で留めている。このようにしてDagor 90mmのフィルター径(おそらく20mm径)にピタリとフィットさせることができる
フードを2段重ねにした状態での装着例(写真・左)と3段重ねにした装着例(写真・中央)。ホームセンターで買える椅子の脚ゴム(内径21mm)をキャップにしている(写真・右)
北方屋のフードは焦点距離50mmのエルマーに合うよう8mmの深さで設計されているため、焦点距離90mmのDagorに対しては丈が短すぎる。そこで、このフードを2段に重ねて使用することにした(写真・左)。ちなみに3段重ねでもケラレは発生しない(写真・中央)。デザインを重視し2段にするか、光学性能を追及し3段にするかは悩みどころである。レンズキャップについては市販品の中にサイズの合うものが見当たらないため、ここではホームセンターで買える椅子の脚ゴム(内径21mm)を流用している(写真・右)。

細長いフードを用いてハレーションをカットする
Dagorのような中・大判撮影用に設計されたレンズは35mm判レンズよりも広いイメージサークルを持っている。このためフルサイズセンサーやAPS-Cセンサーなど小さなイメージフォーマットを持つデジタル一眼カメラに装着して用いると、撮像センサーに収まりきらないイメージ光(イメージサークルの外周部)がミラーボックス内で乱反射し、さらに内面反射光となって光学系の内部に蓄積することでレンズ本体の描写力を損ねてしまう。戦前のノンコートレンズともなれば内面反射光の影響は甚大で、ミラーボックスやヘリコイドユニットの内壁から反射した光が画像の中央部に酷いフレア塊を生み出すこともある。また、コーティングのある戦後のレンズにおいてもイメージフォーマットの合わない規格外のレンズをアダプターを介して用いると、シャープネスを損ねる結果になる。フレアの発生はイメージサークルの大きな中判用レンズ、さらには大判用レンズになるほど深刻である。レンズ本来の描写性能を維持するには純正フードでは不十分であり、細長いフードを用いたりレンズのフィルター部にステップダウンリングを装着するなど不要光を遮断(つまりイメージサークルの周辺部をトリミング)するための徹底した対策をとらなければならない。ヘリコイドユニット等の内壁に黒色の植毛やフェルトを貼っても一定の効果が得られるようだ。今回テストした2種類のDagorの場合、焦点距離90mmの方はイメージサークルが小さくフレアの発生量は僅かであったが、焦点距離120mmのDagorにはかなり悩まされた。このレンズには初めフィルター径55mmの中望遠レンズ用メタルフードを装着し使用していたが、画像中央には見事なまでのフレア塊が発生し、撮影に全く集中できなかった。オーナーのL51さんに相談したところ、長い(深い)フードを用いているだけでは効果は弱く、細いフードを用いる事が重要であるとのアドバイスを得た。そこで、eBayを徘徊し市販で手に入る細長い望用遠フードを探してみた。ところがレンズに合った細長いフードとやらがどこを探しても無い。Dagor 120mmにはフィルター径28mm程度のフードが必要なのである。手に入らないならば自分で造るしかないとトイレに籠もって考えていたが、しばらくして良いアイデアを思い付いた。手にしていたのはトイレットペーパーの芯である。芯の内側をつや消しブラックでペイントし細長いフードが完成。レンズに装着し試写してみたところフレア塊の発生を完全に封じることができた。コントラストも明らか向上し、レンズ本来の性能を引き出すことができるようになったのだ。よし、これで撮ろう!。

撮影テスト
Dagorは中・大判撮影用に設計されたレンズであるからフルサイズセンサーの一眼レフカメラやミラーレス機で使用する場合には細長いフードを装着し、徹底したハレ切り対策を施しておく必要がある。不要光をきちんとカットしたDagorはコントラストやシャープネスが高く、発色も良好で、現代の写真撮影にも十分に通用する優れた描写性能を発揮する。
Dagorは「アナスティグマート」を明示し、ユーザーに対して全ての収差が高いレベルで補正されていることを約束したレンズである。実際にレンズを使用してみると開放からハロと色収差は完全に抑えられておりスッキリとしたヌケの良い像が得られる。コマや非点収差もよく抑えられており、フルサイズフォーマットのカメラによる不完全な評価ではあるが、画質は四隅まで均一で像面湾曲や歪曲も全く目立たない。解像力についても十分なレベルをクリアしている。ただし、キッチリと写りすぎるので線の細い描写までは期待しない方が良い。今回入手した2本のDagorはガラス面にコーティングのないノンコート仕様のレンズである。このため逆光には弱く、撮影条件がシビアになるとフレアが発生し、発色も淡く軟調気味の写りになるが、2群構成という特異な設計である事や空気境界面同士が離れている事が内面反射光の過度な蓄積を抑え、この時代のノンコートレンズとしては異例ともいえる高いコントラスト性能を実現している。後ボケはやや硬くザワザワと騒がしくなることがあり、近接撮影時には2線ボケの傾向がみられることもあるが、像は良く整っておりグルグルボケや放射ボケは見られない。発色は概ねノーマルである。露出をアンダー気味にして色濃度を上げると、赤だけが異様なほど引き立って見えることがある。口径比がF6.8とやや暗い事を除けば大きな欠点はなく、120年前に設計されたレンズとはとても思えない素晴らしい描写力である。
2本のレンズを比較すると階調描写については焦点距離90mmのDagorの方が安定感がありコントラストやシャープネスは高い。これに対し焦点距離120mmのDagorは90mmのモデルに比べると軟調気味で発色も淡く、逆光時になると癒し系の性格をおびることがある。描写力が撮影条件に左右されやすく、コンディションが悪いとハレーションが盛大に出たりシャープネスが急に落ちたりと階調描写には安定感がない。解像力については肉眼でわかるほどの差は見られず、120mmのモデルの方が大口径であるにも関わらず、90mmのモデルより劣るようなことは全くなかった。Dagorの光学設計は広角から超望遠まで幅広い焦点距離に対応できる万能性を有する。焦点距離の変化に対して収差の補正効果を高いレベルに維持することのできる優れた性質を持っているのであろう。ちなみにDagorは絞りに対する焦点移動がたいへん大きなレンズであることが知られている。開放でピントを合わせても、絞り込むとピントが外れてしまう時があるのだ。ジャスピンを狙う場合には絞ったままピントを合わせるのが無難なようである。

Dagor 90mm F6.8@F6.8(開放), AWB(フード無しでの撮影): フードを装着しないまま半逆光の厳しい条件で撮影したためフレアが出ているが、それでもシャドー部には驚くほど締まりがあり、とてもシャープなレンズであることがわかる。戦前のノンコートのレンズとは思えない優れた逆光耐性である。やや軸上色収差が出ているようだ


Dagor 90mm F6.8@F6.8(開放): 以下の作例ではきちんとフードを装着している。90mmのDagorは逆光にもある程度は耐える。この程度の光源ならば全く問題はない

Doppel Anastigmat Series III (Dagor) 120mm F6.8@F6.8(AWB): 続いて120mmのDagorである。光量の多い条件下で使用するとコントラストが低下しやすく軟調気味の描写になる

Dagor 90mm F6.8@F6.8, AWB:  これに対し90mmのDagorは階調描写に安定感があり、光量の多い条件下でもコントラストや発色は、そこそこ良好である
Dagor 90mm F6.8@F6.8, AWB: こちらも90mmだが、先の写真よりはもう少し軟調気味だ
Doppel Anastigmat Series III (Dagor) 120mm F6.8@F6.8(AWB):   再び120mmのDagorである。少しアンダー気味に撮影し色濃度を上げると赤の発色だけが妙なほどに引き立つ結果となる。この発色傾向はインターネット上のDagorの作例にもみられる
Doppel Anastigmat Series III (Dagor) 120mm F6.8@F6.8(AWB):  階調表現は120mmのDagorの方が明らかに軟らかく、オールドレンズらしい淡い発色傾向である




Doppel Anastigmat Series III (Dagor) 120mm F6.8@F6.8(AWB): 有名な雑司が谷鬼子母神堂にある駄菓子屋さんでのショッピング。綿菓子とラムネを手にニンマリご機嫌のご様子で、娘にはお気に入りの場所となった。後で知って驚いたのだが、娘の祖母はこのお堂の氏子なのだそうだ。つまりは氏子の血を引いていたのである

Doppel Anastigmat Series III (Dagor) 120mm F6.8@F6.8(AWB): この作例では太く短いフードを装着し撮影ている。画面中央部にモヤーッとしたフレアが出てしまった(この作例はまだましな方)。細長いフードの効力を知ったのはこの直後である

Doppel Anastigmat Series III (Dagor) 120mm F6.8@F6.8: このとおり後ボケはやや硬く、距離によっては2線ボケになることもある。この傾向は焦点距離90mmのDagorにもみられる