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2015/04/13

Boyer Paris Saphir 《B》 85mm F3.5

1895年にフランスのパリで創業したレンズ専門メーカーのBOYER(ポワイエ)社。同社でレンズの開発を率いていたのはSuzanne Lévy-Bloch (スザンヌ・レビー・ブロッホ) [1894-1974] という名の女性設計士である[脚注1]。Boyer社のレンズには宝石や鉱物の名称が当てられることが多く、Saphir (サファイア/蒼玉)、Topaz (トパーズ/黄玉)、Perl (パール/真珠)、Beryl (ベリル/緑柱石)、Emeraude (エメラルド)、Rubis (ルビー)、Jade (ジェード/ひすい)、Zircon (ジルコン/ヒヤシンス鉱)、Opale (オパール)、Corail (サンゴ)、Onyx (カルセドニー)などレンズの構成や用途ごとに異なる名がつけられている。Boyer社の詳細については2008年に公開されたDan FrommとEric Beltrandoのたいへん詳しい解説があり、この記事のおかげで長い間謎だった同社の歴史や製品ラインナップの詳細が明らかになった[文献1]。Danは世界的に有名なオールドレンズの研究家である。今回はこの記事を参考にしながらBoyer社が1970年代に生産したPlasmat/Orthometar (プラズマート/オルソメタール)型レンズのSaphir 《B》を紹介する。
 

パリで生まれた宝石レンズ 2
Boyer Paris SAPHIR《B》(サファイア《B》85mm F3.5

SAPHIR 《B》は4群6枚の構成を持つPlasmat/Orthometarタイプの引き伸ばし用レンズである(下図参照) [文献1]。このタイプのレンズは口径比こそ明るくないが画質には定評があり、大判撮影用レンズや引き伸ばし用レンズなどプロフェッショナル製品の分野では今も活躍を続ける優れた設計構成として知られている。代表的なレンズとしてはMeyerのDouble Plasmat F4とSatz Plasmat F4.5 (P.Rudolph, 1918年 DE Pat.310615) [文献2]、ZeissのOrthometar F4.5 [W.W.Merte, 1926年 DE Pat. 649112]、現行モデルではSchneiderのComponon-S F4(コンポノンS)とSymmar F5.6(ジンマー)がある。光学設計の特許としては1903年にSchultz and Biller-beck社のE.Arbeit(アルベルト)がDagor(ダゴール)の内側の張り合わせをはがし空気レンズを入れることで明るさを向上させたEuryplan(オイリプラン)[文献3]が最初である。Schultz and Biller-beckは1914年に当時すでに緊密な協力関係にあったMeyerに買収されており、Euryplanの設計特許は当時Meyerのレンズ設計士だったP.Rudolph (ルドルフ博士)の手によって前後群を非対称にしたPlasmatの開発に再利用されている[文献4]。この種のレンズは写真の四隅まで解像力が良好なうえ色ずれ(カラーフリンジ)を良好に抑えることができ、広いイメージフォーマットの隅々までフィルムの性能を活かしきることが求められる大判撮影や中判撮影にも余裕で対応することができる。また、絞っても焦点移動が小さいため引き伸ばし用レンズとしても優れた性能を発揮でき、この製品分野ではワンランク上の高級モデルに使われる構成となっている。明るさはF4程度までとなるため高速シャッターで手持ちによる撮影を基本とする35mm判カメラの分野で広まることはなかったが、Saphir 《B》は頭ひとつ飛びぬけたF3.5を実現し、同型レンズの中ではFujinon-EP 3.5/50とともに突出した明るさとなっている。レンズの名称はもちろん宝石のサファイア(蒼玉)である。SaphirはBoyer社がレンズにつける名称として最も多用した宝石名で、この名をもつレンズのみGauss型、Tessar型、Plasmat型、Heliar型(APO仕様)など光学系の構成が多岐にわたる[文献1]。設計士スザンヌが最も好んだ宝石だったのではないだろうか。今回入手したレンズ名の末尾に《B》の記号がついているのはTessarタイプのSaphirと識別するためである。《B》の表記があるものがPlasmat型で、無表記のものがTessar型またはGauss型となっている。《B》の表記が引き伸ばし用レンズを意味しているわけでないことはTessarタイプのSaphirにも引き伸ばし用モデルが存在し《B》の表記が無いことから明らかである。第二次世界大戦前の1939年までに少なくとも6種類のノンコート・モデル(焦点距離85mm, 100mm, 110mm, 120mm, 135mm, 210mm)がF4.5の口径比で発売され、戦後は1970年代初頭にBoyer社が倒産した後、同社の商標と生産体制を引き継いだCEDIS-BOYER社から口径比F3.5を持つ少なくとも9種類のモデル(焦点距離25mm, 35mm, 50mm, 60mm, 65mm, 75mm, 80mm, 85mm, 95mm)と、口径比F4.5を持つ少なくとも6種類のモデル(100mm, 105mm, 110mm, 135mm, 150mm, 210mm)、および300mm F5.6が供給された。なお、このレンズにはSAPHIR 《BX》という名で1970年代に発売された後継製品が存在する。レンズの生産と供給は1982年まで続いていた。

[脚注1]Suzanne Lévy-Bloch(スザンヌ・レビ-・ブロッホ)[1894-1974] ・・・パリで活動していたアルザス人建築家Paul Bloch(ポール・ブロッホ)の娘。数学で学位を取り、シネマスコープの発明者として名高い天文学者Henri Chrétien(アンリ・クレティアン)に師事、P.Angenieux(ピエール・アンジェニュー)もHenriに師事した同門生である。その後、Henriが創設に協力したパリの光学研究院(Institut d'optique théorique et appliquée)のエンジニアとなっている。夫のAndréが1925年に創業者Antoinr Boyer(アントワーヌ・ポワイエ)の一族からBoyer社を買い取り経営者につくと31歳で同社の設計士となり、その後はAndréと死別する1965年まで数多くのレンズ設計を手掛けている。(M42 MOUNT SPIRAL 2013年2月28日でまとめた記事を要約)

Boyer Saphir 《B》(1931)の構成図トレーススケッチ。本レンズは引き伸ばし用なので光学系の左右の位置関係が普通のレンズとは逆で、銘板のある側が後玉となる。上図で言うと光はフィルムを通過後に左側(マウント側)から入り、矢印に沿って進み、銘板のある右側へと抜けたあと印画紙へと届く。構成は4群6枚のPlasmat/Orthometar型である。非点収差と倍率色収差の補正効果が優れ、写真の四隅まで高解像なうえ、色ズレ(カラーフリンジ)を良好に抑えることができるという特徴を持つ。また画角を広げてもコマ収差がほとんど変化しないため広角レンズにも向いており、かつては航空撮影用や写真測量用の広角レンズにも使われていたことがある。絞っても焦点移動が小さいため引き伸ばし用レンズにも好んで用いられる設計である。各エレメントを肉厚にすることが収差的に上手く設計するコツなのだそうである[文献5]









参考文献
重量(実測) 270g, F3.5-F16, 絞り羽 16枚, 焦点距離85mm(実効焦点距離 87.3mm), マウント形状 L39/M39, 引き伸ばし用レンズ(エンラージングレンズ)


入手の経緯
レンズは2013年12月にebayを介して米国のロスチルド4さんから落札購入した。このセラーは同型レンズのデットストック品を次々と売り続ける人物のため、少し前からマークしていた。私は過去4回にわたりこのセラーから売り出された同一モデルのレンズに対して落札を試みたが、5回目にしてようやく入手に成功することができた。過去5回の落札額は250~300ドル+送料48ドルである。届いた品はやはり状態が良く、元箱とオリジナルキャップがついてきた。Boyer製レンズは最近になって広く認知されるようになり、エンラージングレンズであるにも関わらず、ここ1年間の推移を見ても相場価格が急激に高騰している。eBayでは2015年4月現在で同じ型のレンズが450ドルから600ドル程度で取引されている。
 
カメラへの搭載
引き伸ばし用レンズは一般にヘリコイド(光学部の繰り出し機構)が省かれており、一眼レフカメラやミラーレス機の交換レンズとして用いるにはヘリコイドユニットを別途用意し、これと併用する必要がある。レンズは通常マウント部がライカスクリューと同じM39/L39ネジになっており、変換リングを介してM42マウントの直進ヘリコイドに搭載することができ、M42レンズとして各種一眼レフカメラやミラーレス機等で使用することができる。M39-M42変換リングや直進ヘリコイドは一部の専門店に加えヤフオクやeBayで入手できる。なお、本レンズが包括できるイメージフォーマットは35mm判よりも広く中判6x6フォーマットでもケラれることなくカバーできるので、今回はレンズを中判カメラのBronica S2でも使用した。この場合は35mm判換算で46mm F1.9相当の画角とボケ量が得られる。レンズをカメラにマウントするには香港のレンズワークショップから入手した特製Bronica M57-M42マウントアダプターを用いている。ただし、フランジ長の関係で無限遠のフォーカスを拾うことができないので、撮影は近接域のみに限られている。 

撮影テスト
引き伸ばし用レンズとはフィルムに記録された細かいディテールを印画紙に正確に投影するために用いられるレンズである。写真用レンズとは異なり、そもそも平面であるフィルムの記録を同じく平面である印画紙に焼き付けることを目的とするため、撮影用レンズを上回る解像力を持つことは当然ながら、印画紙上で四隅まで均一な投影像が得られるよう収差補正されていることが重要である。例えばカラーフリンジや歪みは極限まで少ないことが好まれるし、像面湾曲も出来る限り小さくなるよう設計されている。このような用途の性格上、結果として立体感のやや乏しい平面的な写りになることは仕方のない事である。また、ワーキングディスタンスが近接領域に限られるので、収差の補正基準は普通の写真用レンズのように無限遠に取られているわけではなく近接域になっているのが普通で、マクロ撮影では非常に良く写る。画質設計にボケ味は考慮されておらず、どう写るかレンズを実際に使ってみないとわからない面白さがある。
Saphir《B》は流石に引き伸ばし用レンズというだけのことはあり、歪みや色収差は目立たないレベルまで抑えられている。また、近接撮影では良好な解像力を示し四隅まで画質には安定感がある。階調はなだらかに推移しながらもコントラストは良好でよく写るレンズである。発色はやや青みがかる傾向があり、偶然なのかはわからないが、まさにサファイアブルー!。そういえばBoyerにはルビーというレンズもあるが、このレンズの場合には赤みがかるのであろうか・・・そんなはずはないか。ボケは前後ともたいへん美しく、近接からポートレート域では背後にフレアが入るため滑らかなボケ味となっている。ポートレート域では僅かに背後にグルグルボケが出ることもあるが、目立つ程ではない。
以下では中判カメラによる銀塩撮影とデジタル一眼カメラによる作例を示す。



中判銀塩カメラ(6x6 format)による作例

使用機材
CAMERA: Bronica S2, 露出計: セコニック・スタジオデラックスL-398, FILM: Fujifilm Pro160NSカラーネガ, Kodak Portra 400(カラーネガ)
 
F8 銀塩撮影 Fujifilm PRO160NS + Bronica S2(6x6 format):さすがにエンラージングレンズ。近接撮影用を想定しているだけのことはあり、マクロ域でもピント部の描写は安定している。絞っても階調は軟らかく推移し、とても美しい描写である

F3.5(開放) 銀塩撮影 Fujifilm PRO160NS + Bronica S2(6x6 format):開放なので被写界深度はとても浅い。ピント部には十分な解像力があり、フィルム撮影で用いるには十分な性能である









F3.5(開放) 銀塩撮影 Fujifilm PRO160NS + Bronica S2(6x6 format): こちらも開放。これだけ写るのだから、素晴らしいとしか言いようがない。高解像なピント部とフレアに包まれる美しい後ボケが見事に両立している。 F5.6まで絞った同一作例はこちら



F11 銀塩撮影 Kodak Portra 400 + Bronica S2(6x6 format): 絞るとやはりシャープである。開放での同一作例はこちら


F8 銀塩撮影 Kodak Portra 400 + Bronica S2(6x6 format)

F8, 銀塩撮影(階調補正:黒締め適用),  Fujifilm PRO160NS + Bronica S2(6x6 format)
















35mm判カメラによるデジタル撮影
CAMERA: Sony A7
F8, Nikon D3(AWB): こんどはデジタル撮影。背景はコマフレアに覆われ美しいボケ味である


F8, Sony A7(AWB): 質感表現もバッチリでマクロ撮影用レンズとしても十分な性能だ。開放での描写(→こちら)はピント部にも僅かにフレアを纏うようになるが、解像力やコントラストは維持されている

上の写真の一部を拡大クロップしたもの。近接撮影での解像力は高く、質感を緻密に表現している
F3.5(開放), Sony A7(AWB):ポートレート域でも背景にモヤモヤとコマフレアが入り美しいボケ味を演出している。一方でピント部はスッキリとヌケが良い。器用な描写特性を持つレンズだ






F3.5(開放), Sony A7(AWB): コントラストは良く、ピント部はシャープである

F5.6, Sony A7(AWB): 

F3.5(開放), Sony A7(AWB): 開放でもコントラストは良好

F8, Sony A7(AWB): 強い日差しでも階調硬化はみられない








F5.6, Sony A7(AWB): フィルターねじが無いレンズなのでフードはつかないが、屋外での使用時でもゴーストやハレーションはあまり出なかった
F5.6, Sony A7(AWB): この日は小学校の入学式。記念撮影です

2013/02/28

Boyer paris Beryl 90mm F6.8 and Saphir 《B》 100mm F4.5

 
パリを拠点に戦前から活躍していたレンズメーカーのBOYER(ポワイエ)社。同社の生産したレンズには宝石や鉱物の名が当てられることが多く、Saphir(サファイア/蒼玉)、Topaz(トパーズ/黄玉)、Perl(パール/真珠)、Beryl(ベリル/緑柱石)、Emeraude(エメラルド)、Rubis(ルビー)、Jade(ジェード/ひすい)、Zircon(ジルコン/ヒヤシンス鉱)、Opale(オパール)、Corail(サンゴ)、Onyx(カルセドニー)などがある。レンズを設計していたのはSuzanne Lévy-Bloch(スザンヌ・レビ-・ブロッホ) という名の女性エンジニアである。フランス!、宝石!!、女性設計士!!!。気分がワクワクと高揚してしまうのは私だけであろうか?

パリで生まれた宝石レンズ達
Boyer Beryl and Saphir 《B》

Boyer(ポワイエ)社は1895年にAntoinr Boyer(アントワーヌ・ポワイエ)という人物がフランスのパリに設立したレンズメーカーである。設立当初は従業員4名の小規模な会社であったが1925年に転機が訪れる。創業者のAndré Boyerが死去し、会社の経営権が息子のMarcel Boyer(マルセル・ポワイエ)に引き継がれたのである。ところがMarcelは経営を嫌がり、直ぐにBaille-Lemaire社・写真部門のチーフマネージャーAndré Lévy (アンドレ・レビー) [1890-1965]に会社を売却してしまった(1925年)。そして、新たな経営者となったAndréの妻こそが、その後40年に渡りBoyer社の主任レンズ設計士となるSuzanne(スザンヌ)その人である。
   Boyer社が生産したレンズは一般撮影用(スチル用/シネ用)をはじめ、写真製版用、引き伸ばし用(印画用)、複写用、プロジェクター用、オシロスコープ記録用、航空撮影用など多岐にわたる。レンズの設計構成もダブルガウス型、テッサー型、トリプレット型に加え、ペッツバール型、ダゴール型、プラズマート型、トポゴン・メトロゴン型、ヘリアー型などマニア心をくすぐるものが揃い、設計士Suzanneの趣味の広さを知ることができる・・・。いや、単に天真爛漫なうえ夫が経営者なので好き勝手し放題だったのかもしれない。きっとそうだ。

女性設計士Suzanne
Suzanne Lévy-Bloch(スザンヌ・レビ-・ブロッホ) [1894-1974]はパリで活動していたアルザス人建築家Paul Bloch(ポール・ブロッホ)の娘である。彼女は数学で学位を取り、シネマスコープの発明者として名高い天文学者Henri Chrétien(アンリ・クレティアン)に師事した。ちなみにP.Angenieux(ピエール・アンジェニュー)もHenriに師事したかつての同門生である。彼女はその後、Henriが創設に協力したパリの光学研究院(Institut d'optique théorique et appliquée)のエンジニアとなっている。夫のAndréが1925年にBoyer社を買い取り経営者につくと31歳で同社の設計士となり、その後はAndréと死別する1965年まで数多くのレンズ設計を手掛けている。彼女の孫娘Isabelle Lévy(イザベル・レビー)はSuzanneがフランスで最初の女性光学エンジニアであったと確信している。Isabelleは彼女の祖父母達(AndréとSuzanne)のことを回想し、祖父Andréは会社の経営、祖母Suzanneはレンズの設計に専念しながらも、2人が一体となって事業に取り組んでいたと述べている。Suzanneは会社にとって欠かせない存在でありながら、同時にLévy家の母として家事・育児をこなしていたわけだ。おそらくAndréはSuzanneの尻に敷かれていたに違いない。マニア心をくすぐるBoyer社のレンズ達は、こうした夫婦間の力関係によって生み出されたのではないだろうか。なお、1965年に経営者Andréが死去すると会社の運営は長男のRobert Lévy(ロバート・レビー)が引き継いでいる。

BOYER社のその後
1965年にBoyer社の経営はLévy家の長男Robertの手に引き継がれるが、会社は間もなく経営危機に陥り1970年代初頭に倒産している。ヨーロッパの写真工業は60年代から70年代にかけて衰退の一途を辿っており、Boyer社もその例外ではなかったのだ。倒産後、会社はいったん閉鎖されるが、その後フランスの光学機器メーカーCEDIS(セデス)社のオーナーM. Kiritsisによって買収され、レンズの生産はCEDIS-BOYER社のブランドとして復活する。Kiritsisという人物はBoyer社買収の数年前まで存続していた光学機器メーカーRoussel(ラッセル)社の前オーナーでもあった。CEDIS-BOYER社レンズの設計と組み立ての最終工程のみを行う事業規模の小さな会社であり、レンズエレメントなどの外注部品の製造はBoyer社時代の人脈に頼っていた。同社はその後10年間存続し、オーナーのKiritsisが死去した後、1982年に閉鎖されている。

Beryl 90mm F6.8: 重量(実測) 91g, 絞り羽 12枚, 絞り値 F6.8-F32, フィルター径 19mm, マウント M39/L39, レンズ構成 2群6枚(Dagor型), 真鍮製バーレルレンズ

Saphir 《B》 100mm F4.5: 重量(実測)210g, 絞り羽 18枚,絞り値 F4.5-F22, 構成4群6枚(Plasmat型),フィルター径 36mm, M39/L39マウント, 真鍮製バーレルレンズ。戦前の古いBoyer製レンズによくみられる鏡胴内の黒いコバの劣化が本レンズにもみられる。海外のマニア層の間では最近この現象をBoyeritisと呼び始めている(Schneideritisにかけた造語)
今回、私が入手したレンズはBOYER社の中でも比較的レアなモデルと言われるDAGORタイプ(2群6枚)のBERYL(ベリル) 90mm F6.8と、比較的入手しやすいPLASMATタイプ(4群6枚)のSAPHIR(サファイア) 《B》 100mm F4.5である。Boyer社のレンズはその大半が特許期限の切れた他社のレンズ構成を模範とする再設計品であり、Beryl 90mm F6.8も前エントリーで取り上げたGoerz社のDagor 90mm F6.8をお手本にSuzanneの手で再設計された改良レンズである。デットコピーではないと言い切れるのはBeryl 90mmのバックフォーカスがDagor 90mmのそれとはかなり異なるからである。また、Dagorは絞りに対する焦点移動(フォーカスシフト)がたいへん大きなレンズであるが、Berylではこの点がかなり改善されているという報告もあり、絞り込んで撮影する場合にも開放でピント合わせができるよう改良されている。Berylは色収差の補正が非常に優れているという報告もある。 レンズの名称はベリリウムを含む六角柱状の鉱物「緑柱石」から来ており、宝石のエメラルドはその一種として有名である。第二次世界大戦前の1939年までに少なくとも6種類のノンコート・モデル(焦点距離50mm, 85mm, 110mm, 135mm, 180mm, 210mm)が発売され、戦後になってからは1970年代に少なくとも11種類のモデル(85mm, 90mm, 100mm, 110mm, 135mm, 180mm, 210mm, 240mm, 250mm, 305mm, 355mm)が発売された。いずれもDagorと同じF6.8の口径比を持ち、前群を外した状態において後群のみで撮影することもできる。この場合には焦点距離が約2倍、開放絞り値はF13となる。なお、同社のレンズは1947年以降の製造ロットからガラス面にコーティングが施されるようになっている。Berylの姉妹レンズとしては近接撮影用に設計されたと思われる用途不明のBeryl S F7.7と、リプログラフィック用レンズとして供給されたEmeraude(エメラルド)F6.8があり、いずれも構成はDagorタイプである。Berylにはシンクロコンパーシャッターを搭載した製品個体もあるため、一般撮影用に設計されモデルなのであろう。
一方のSAPHIR 《B》は4群6枚の構成を持つPlasmat(プラズマート)型(空気層入りの変形DAGORともとれる)の引き伸ばし用レンズである。このタイプの構成も人気があり、光学機器メーカーの各社からレンズが供給されていた。良く知られたものとしてはSchneider社Compononがある。設計特許としては1903年にSchultz and Biller-beck社のE.Arbeitが開示したEuryplan(オイリプラン)が最初のようである。ちなみにSchultz and Biller-beck社は後にHugo Meyer社に買収され、Euryplanの設計特許はHugo Meyer社のルドルフ博士の手によってPlasmatの開発に再利用されている。レンズの名称はもちろん宝石のサファイアである。SaphirはBoyer社が最も好んで多用した宝石名であり、この名称を持つレンズのみGauss型、Tessar型、Plasmat型など光学系の構成が多岐にわたる。今回入手したレンズ名の末尾に《B》の記号がついているのは、TessarタイプのSaphirと識別するためであろう。《B》の表記があるものがPlasmat型で、無表記のものがTessar型またはGauss型となっている。引き伸ばし用レンズを意味しているわけでないことはTessarタイプのSaphirにも引き伸ばし用レンズが存在することから明らかである。第二次世界大戦前の1939年までに少なくとも6種類のノンコート・モデル(焦点距離85mm, 100mm, 110mm, 120mm, 135mm, 210mm)がF4.5の口径比で発売され、戦後は1970年代に口径比F3.5を持つ少なくとも9種類のモデル(焦点距離25mm, 35mm, 50mm, 60mm, 65mm, 75mm, 80mm, 85mm, 95mm)と、口径比F4.5を持つ少なくとも6種類のモデル(100mm, 105mm, 110mm, 135mm, 150mm, 210mm)、および300mm F5.6が発売された。戦後に発売されたモデルにはガラス面にコーティングが施されている。なお、このレンズにはSAPHIR 《BX》という名で1970年代に発売された後継製品が存在している。

参考文献:Dan Fromm (USA) & Eric Beltrando (France), "Optiques Boyer: A short history of the company with an incomplete catalog of its lenses", Sept. 2008

  
入手の経緯
今回取り上げるBeryl 90mm F6.8は2013年2月にeBayを介してチェコのカメラメイトから入手した。レンズは送料込みの150ドルで売り出されており、値切り交渉を受け付けていたので118ドルでどうかと強気に提案してみたところ私のものとなった。外観はペイントのハゲが目立っていたが、商品の状態については同ショップによる(A)ランクの格付けで、「クリーンオプティック」と強気の解説なので、ガラスの状態は良さそうであった。BerylはBoyer製レンズの中でも市場にあまり出回らない比較的珍しいモデルである。口径比が暗いうえにマウント部がM39/L39ネジになっていることから、引き伸ばし用レンズとして認識されていたのかもしれないが、とにかく安く売られていた。届いたレンズは撮影に影響のないレベルのホコリと極薄いクリーニングマークがあったが、状態は良好である。DAGORタイプにしては破格値で手に入れることができたわけだ。ニシシ・・・。
続いてSAPHIR 《B》 100mm F4.5は2013年2月にeBayを介してポーランドの大手中古業者から入手した。商品は「ガラスに傷、カビ、バルサム切れはなく、わずかに使用感あり」との解説で200ドルの即決価格で売られていた。この業者はレアな商品を多く取り扱うが商品の状態については博打的な要素が強いので、クモリについてはどうなのかを事前に問い合わせ「クモリはない」との返答をもらっておいた。値切り交渉を受け付けていたので165ドルでどうかと提案したところ私のものとなった。送料込の総額は190ドルである。しかし、届いた品はフロントガラスに肉眼で判るほどの明らかなクモリである。セラーに連絡を取り、写真を添え、「あんなに慎重に尋ねたのに何でクモリなのですか?私が返送代金を払い損をするんだから、ちゃんと説明してくださいね!」と弁明を要求しつつ、「返送料を加えた返金に応じるなら落札者フィードバックはネガティブにもニュートラルにもしませんよ」と逃げ道を与えることで返送料を加えた全額返金に応じさせた。相手に明確な手落ちがある場合にはeBayの取引規定(返品時の送料は落差者負担)を無視し出品者に返送料を要求してもよいというのが私の持論である。例えば全く異なる商品が送られて来た場合には出品者が返送料を支払うのが筋であろう。セラーに対して何も主張しなければ通常は取引規定に呑まれてしまうのだ。なお、クモリの影響を見るため1枚だけ部屋の雛人形を試写してみた。
 
マウント部の変換
Boyer社のレンズは一部の製品を除きヘリコイドの省かれているものが大半である。多くはマウント部がM39/L39ネジで供給されているので、M39-M42アダプターリングを介してM42フォーカッシング・ヘリコイドに搭載すれば、無改造のまま一眼レフカメラやミラーレス機で使用可能になる。

M39-M42リングアダプターを装着しマウントをM39/L39からM42に変換する。これでM42フォーカッシング・ヘリコイドに搭載できる

M42フォーカッシング・ヘリコイド(36-90mm)に搭載した様子。後列のSaphir《B》は返品したので、ここでは単なる飾りとして掲載している
M39-M42リングアダプターやM42フォーカッシング・ヘリコイド(36-90mm)はeBayから常時入手することができる。上の写真はBeryl 90mm F6.8をM42フォーカッシング・ヘリコイドに装着した例である。使用しているヘリコイドは高伸長タイプなので最短撮影距離は40cm程度となりマクロ撮影も可能だ。一方、遠方側の最長ピント部は無限遠を通り過ぎ若干のオーバーインフとなる。このままM42レンズとして使用することもできるし、マウントアダプターを介してNikon Fマウントのカメラで使用することも可能である。この場合は補正レンズを使わないで無限遠のフォーカスを拾うことができる。

撮影テスト
BerylはGoerz社の傑作レンズDagorを模範とするBoyer社の改良レンズである。ピント部の画質は四隅まで安定しており、Dagor 90mmの作例(こちら)で近接撮影時に見られた僅かな色収差もBeryl 90mmではほぼ完全に補正されている。Dagorともどもヌケの良いレンズなので、スッキリと写り、温調気味の鮮やかな発色である。
Dagorと言えばコーティング技術が実用化されていかった時代に空気境界面を徹底的に減らすことで内面反射光を抑さえ、アナスチグマートでありながら高い階調描写力を実現した画期的なレンズである。空気とガラスの境界面が僅か4面しかないという特異な設計構成であることに加え、ハロやコマが殆どないため、コントラストが高く、階調描写はとても鋭い。元々はコーティングに頼らなくても充分シャープに写るレンズ構成であるが、Berylの場合には1970年代のモデルチェンジで現代の技術水準に近い高性能なコーティングが施されている。このため、コントラストやシャープネスは異常に高く、シャドー部には驚くほど締りがある。しかし、その副作用として晴天時などで使用すると階調の硬化が進み、中間階調が奮わず黒潰れを頻発してしまう。この種の悩みは1970年代以降のテッサーやトリプレットにもみられる。こういう描写を焦げた目玉焼きなどにかけて「カリカリの描写」と呼ぶらしい。オールドレンズ愛好家達は階調描写のなだらかさや中間階調の豊富さに古典レンズならではの価値を見いだしているが、一方でシンプルな構成を持ちヌケの良い古典レンズに現代のコーティングを施すと、レンズの性質が反転し本来求められていた描写特性とは正反対の極めて鋭利な性質が表れてしまうのであろう。コントラストやシャープネスは単に高ければ良いというものではない。Berylはその事を私たちに教えてくれる模範的なレンズなのだ。なお、このレンズを晴天下で使用する場合はレンズフードを故意に外すなど、階調描写力の暴走にブレーキをかけるための特別な配慮が必要になってくる。
 

CAMERA: EOS 6D, AWB
LENS HOOD: 北方屋特性Elmar専用マイクロメタルフード
Beryl 90mm F6.8@F16+EOS 6D(AWB): 近接撮影でも高い解像力を維持している。このとおりスッキリとヌケの良いレンズだ
Beryl 90mm F4.5@F8+EOS6D(AWB): 少し絞るだけで解像力はこのとおりに高く、ピント部の画質は四隅まで安定している

Boyer Beryl 90mm F6.8@F6.8(開放)+EOS6D(AWB): コントラストが高く、開放絞りでもこれだけシャープに写る。ただし、日差しが強いとシャドー部が完全に黒潰れしてしまい、中間階調を省略したような描写に時々頭を抱えてしまう

Beryl 90mm F6.8@F8+EOS 6D(AWB): 発色はとても鮮やか。やや温調気味の傾向だ

Beryl 90mm F6.8@F6.8+EOS 6D(AWB): 後ボケはやや硬く距離によってはザワザワと煩くなることもある


Beryl 90mm F6.8@F6.8+EOS 6D(AWB): 前ボケはフワッとしていて悪くない印象だ
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下の作例はSaphir《B》でクモリの影響を見るために室内で試写した結果である。レンズ本来の実力ではないので参考程度にしてほしい。


Saphir《B》 100mm F4.5@F11+EOS 6D(AWB): クモリの影響で解像力はそれほど高くはないし、ヌケも今一つ。世評ではシャープな描写力を持つレンズとのことである。はやり返して正解
SAPHIRはBoyer社が最も好んで多用した宝石名である。設計士Suzanneはこの宝石に特別な思いを抱いていたのかもしれない。ちなみに世界4大宝石の中に同社のレンズ名として使用されなかったものが一つだけあり、宝石の王者ダイアモンドである。この宝石名が使用されなかったことには何か深い事情があったのかもしれない。