おしらせ


2013/08/29

Isco-Göttingen WESTROGON 24mm F4 (M42)

人の目の視野よりも遥かに広い画角で画面の四隅にメインの被写体を捉える広角レンズ。沢山の物が写り過ぎてしまうことから常用レンズには不向きだが、ここぞという時の一発勝負で面白い構図を実現させてくれる頼もしいピンチヒッターだ。中でも特に面白いのが焦点距離25mm未満の超広角レンズで、四隅をうまく使えば複数のドラマを一枚の写真に同居させることができる。単に風景(遠景)を撮るだけなら30mm~40mmの準広角レンズでも充分だが、超広角レンズは四隅に据えたメインの被写体と画面を支配する風景を高いレベルで融合させることができるのだ。被写界深度が極めて深いため数段絞るだけでパンフォーカスにもなる。

超広角レンズの戦国時代に登場した
ISCOの弩迫力レンズ
1950年に世界初のスチル撮影用レトロフォーカス型広角レンズとなるAngenieux Type R1 35mm F2.5が登場し10年の歳月が流れた。レトロフォーカスの仕組みは単にバックフォーカスを稼ぎ一眼レフカメラへの適合を助けるだけではなく、周辺光量の減少を防いだり、ペッツバール和を抑制し周辺画質を改善させるなど、広角レンズの設計に数多くの利点を生み出すことがわかっていた。こうした長所に目をつけたレンズメーカー各社は、超広角レトロフォーカス型レンズの実現に向け研究開発にしのぎを削っていた。しかし、包括画角を広げながら写真の隅々まで一定レベルの画質を維持するのは容易なことではなく、1959年にCarl Zeiss Jena Flektogon 25mmF4とAngenieux Type R61 24mmF3.5が登場するまで、この種のレンズが焦点距離を10mm短縮させるのに10年近くもの歳月を要している。
今回取り上げる1本はSchnaiderグループ傘下のIsco-Göttingen(イスコ・ゲッチンゲン)社が1959年に発売したM42マウントの超広角レンズWestrogon(ウエストロゴン) 24mm F4である。Schneiderグループと言えばLeitzへのOEM供給として1958年にSuper-Angulon 21mmを先行投入しており、後にレトロフォーカス型広角レンズの分野にも積極的に参入している。ただし自社ブランドによる超広角レンズは意外なことにWestrogonのみであった。本レンズの第一印象はやはり強烈なインパクトを放つ鏡胴のデザインであろう。FlektogonやEurygonのゼブラ柄デザインも凄かったが、Westrogonはそれらに勝るとも劣らない堂々とした存在感である。本品には焦点距離の異なる3本の姉妹レンズがあり、準広角レンズのWestron 35mm F2.8、標準レンズのWestrocolor 50mm F1.9, 望遠レンズのWestanar 135mm F4などがWestrogonと共に市場供給されていた。これらは明らかに旧東ドイツのZeiss製品に対抗することを意識したラインナップである。その決定的な証拠はレンズの光学設計(下図)の中からも読み解くことができる。

Westrogon 4/24の光学系。1960年のチラシからトレースした。構成は6群8枚のレトロフォーカス型。Carl Zeiss Jena Flektogon 35mmの光学系をベースとしており、第2群にはり合わせ面を持つ1群2枚の色消しユニット(新色消し)この部分で非点収差と倍率色収差を強力に補正することで四隅の画質を補強し、超広角に耐えうる性能を実現したものと思われる。
光学系は6群8枚で一見複雑で独特な構成にも見えるが、よく見ると第2群のはり合わせレンズを取り除けばFlektogon 35mm F2.8(初期型1950年登場)の光学系そのもので、後群はBiometarである。つまり、Westrogonは旧東ドイツのZeiss Flektogon 35mmおよびその設計の元になったBiometarから発展したレンズなのである。第2群には「新色消し」ユニットを配置し非点収差と倍率色収差を補正(詳細は上図のキャプションを参照)、更なる広角化のために四隅の画質を補強したレンズということになる。レンズを設計したのは東ドイツのVEB Zeiss Jena社でフレクトゴンの設計にかかわったRudolph Solisch(ルドルフ・ソリッシ)という人物で、1956年にZeiss JenaからISCOに移籍している(Pat. DE1.063.826)。最前部に大きく湾曲した凹レンズを据えているのはレトロフォーカス型レンズに共通する特徴で、バックフォーカスを延長し一眼レフカメラに適合させる働きがある。また、この部分に備わった光線発散作用により第2群の新色消しユニットで補正できない球面収差を補正することができる。両レンズ間の凸空気レンズの働きを利用すれば球面収差の中間部の膨らみを叩く事もでき解像力の向上に効果がある。
 
入手の経緯
2012年12月にebay(ドイツ版)を介しドイツの写真機材店から即決価格で落札購入した。商品ははじめ179ユーロで売り出されていたが値切り交渉によって159ユーロ(+送料40ユーロ)で手中に収めた。商品の状態については、「グット。鏡胴には僅かに傷がある」と簡素であったが、このセラーは大きな問題を抱えた商品以外で「グット」と簡単に評価するのが慣例文句のようなので、状態は良好と判断。商品は1週間で届き、やはり状態の良い文句なしの品であった。今回は幸運にも安く購入できたが、ややレアなレンズなので本来は200ユーロを超える額で取引されることも珍しくは無い。しかも、中古市場に出回る製品個体はEXAKTAマウントが大半であり、M42マウントの個体が出てくることは極めて稀。本来はもっと高価なのだと思う。ラッキーな買い物であった。
重量(実測)436g, 絞り羽 8枚, 最短撮影距離 0.5m, フィルター径 82mm, 絞り F4-F22, 半自動絞り, 焦点距離 24mm, 光学系は6群8枚構成のレトロフォーカス型, EXAKTAマウントとM42マウントの2種のモデルが存在する
撮影テスト
Camera: デジタル:EOS 6D / 銀塩:minolta X-700
EOS 6Dではフォーカスを無限遠近くにあわせると後玉のガードがカメラのミラーに干渉するので、ミラーアップ・モードで撮影することが必須となる。X-700ではミラー干渉の心配はない。

超広角レンズの描写性能で特に期待を寄せる部分は周辺部の画質だ。WESTROGONの場合は四隅のごく近くで解像力が不足し、開放では若干の周辺光量落ちもみられる。ただし、歪み(歪曲収差)は非常に良く補正されており、微かに樽型だが通常の撮影では殆んど判別できないレベルに抑えられている。ハロやコマは開放でも殆んど目立たずスッキリとヌケの良い写りだ。逆光撮影には弱く、撮影条件が悪いと画面の一端(空などの光源側)からフレアが発生しコントラストが低下気味になる。カラーバランスはノーマルで、フレアさえ出なければ発色も悪くない。黎明期の超広角レンズに解像力の高さを求めるのは期待のかけ過ぎであろう。広い包括画角の全画面に渡り、破綻の無い画質を実現する事が精一杯の目標だったからである。むしろ、これだけまともに写るWESTROGONの描写性能に敢闘賞を捧げたい。
F8, EOS 6D(AWB): このスカッとした開放感は超広角レンズならではのものだ!歪みは殆んど判別できない

F8, EOS6D(AWB): ホイアンの民芸品店。ろくろ台の上に陶土を置き変形させるところ。表情はサブの被写体として四隅に配置した
F8, EOS6D(AWB): そして完成!あっという間の出際良さで、さすがに職人だ。殆んど見ずに造っていたような作業工程だった
F11, 銀塩ネガ(Fujicolor S200): 今度はフィルム撮影。とてもヌケがよくコントラストも良好だ
F8, EOS 6D(AWB): 四隅の近辺で解像力不足がみられる
F11, EOS 6D(AWB): パンフォーカスによる一枚。フレアが出やすいのは、この種の超広角レンズによくあることだ。フードを装着すれば少しは改善するかもしれない(私はケラレの心配を憂慮し未装着)。曇り空のもとフレアが発生するとコントラストは下がり気味で、淡くあっさり目の発色傾向になる。写真はベトナムの日本橋で撮影したもの。この橋はホイアンを拠点に朱印船貿易で財を成した日本人が16世紀に建てたもので、ベトナム戦争でも破壊されず、現在は世界遺産の街ホイアンのシンボルになっている






F8, EOS 6D(AWB): 橋の袂(右下)、ピンク色の壁の付根あたりに注目。四隅での解像力不足が良くわかる。この橋の近くにある屋台でカメラオタク風の3人の外国人観光客(男性)に声をかけられた。3人は既に意気投合している様子で、そこに私がカメラをぶら下げて同席したというわけだ。相手の熱いまなざしに、はじめホモの男喰家集団ではないかと恐れたが、一人はオリンパスのフォーサーズ機にMFレンズを装着したフランス人、2名のアジア人の片方がM42のTakumarをEOS 5Dに装着しており、なんだそういうことかと安心した。その後、私のWestrogon+EOS6D渡すと楽しそうに試写していた。4人でベトナム風あんみつのチェーを食べながらレンズ話に盛り上がったひと時であった


F5.6, EOS 6D(AWB): 我娘もろくろ台を使った陶器造りに挑戦。楽しそう

超広角レンズは使っていてとても楽しいアイテムである。被写界深度が極めて深く目測でもピントあわせができるので、構図を考えることに集中できる。手に入れる機会があれば今度はBIOGON 21mmあたりにもトライしてみたい。


2013/08/12

E.Krauss paris Unar-Zeiss(ウナー・ツァイス) 145mm F4.7 and 136mm F6.3 (改M42)




Carl Zeissブランドのレンズといえば本家以外では現行のコシナに加え、かつては京セラオプテックやシンガポールのローライ、米国のボシュ・ロム、英国のロスなどの製品があり、世界中のメーカーが同ブランドのライセンス生産にのり出していた。その歴史は古く、実は今から約1世紀も昔のフランス製品にもCarl Zeissブランドのレンズが存在していた。パリの光学機器メーカーE.Krauss(E.クラウス)社が1892年から1930年代半ばまでライセンス生産していたCarl Zeissブランドのレンズである。

今回取り上げる2本のレンズ。Unar-Zeiss 145mm F4.7(左)とUnar-Zeiss 136mm F6.3(右)








E.Krauss社が世に送り出した
フランス製Carl Zeissレンズ
19世紀のフランスには光学ガラス会社が数多く存在していた。代表的なメーカーとしては1839年に世界初の市販カメラを供給した老舗Chevalier(シュバリエ)があり、他にもJamin(ジャマン), Darlot(ダルロウ), Derogy(ドロジー), Lerebours(ルルブール), Berthiot(ベルチオ), Hermagis(エルマジ), Soleil(ソレイユ)などの大手メーカーと総数75を超える中小会社や工房がひしめいていた。今回注目するE.Krauss(E.クラウス)社はEugen Krauss(オイゲン・クラウス)という人物が1882年にパリで創業した光学機器メーカーである。創業時は事業規模の小さな会社であったが、1891年にフランス国内とフランス領におけるツァイス製品の正規輸入元として大抜擢されたのを機に事業規模が急速に拡大、翌1892年にはフランスのメーカーとして唯一、ツァイスブランドの光学製品を製造できるライセンスを供与され、20世紀初頭には大手メーカーへと躍進を遂げている。
E.Krauss社に関する情報は極めて少ない。同社が市場供給していた製品や広告媒体、フランスの工業史に関する解説論文[文献1]が数少ない手がかりとなる。確かなことは同社が19世紀末から自社製カメラに加え、ツァイスのライセンスで写真用レンズ、双眼鏡、顕微鏡など製造し、フランス国内とフランス領、およびとロシアで販売していたことである。カメラの生産については1892年に既に蛇腹カメラを市場供給しており、1913年頃にはTykta(ティクタ)という名の蛇腹カメラ(6.5x9cmフォーマット)、1920年にはLE PHOTO-REVOLVER(フォトレボルバー)という小型カメラ(2x3cmフォーマット)、1924年にはEKA(エカ)という名の美しい小型カメラ(3x4.4cmフォーマット)を発売している。同社の製造したZeissブランドのレンズにはProtar, Unar, Tessar, Protarlinse(Double Protar)をはじめ、Planar, Tele-tessar,Tessar Apochromatiqueなどがあり、それ以外には旧ガウス型(4枚玉)のKalloptatやシネマ用のRexylなどがある。またTrianarやQuatrylという名の自社ブランドのレンズも生産していた。これらは名称からして、それぞれ3枚玉(トリプレット型)と4枚玉(テッサー型)であろう。フランスの光学産業は1919年に勃発した第一次世界大戦で壊滅的なダメージを受け19世紀から続く数多くのメーカーがこの時期に倒産している。生き残ったE.Krauss社も甚大なダメージを受け危機的な状態にあったが、ポーランドのPZOから支援を受け傘下のフランスメーカーOPL(ルヴァロワ光学精機社/Société Optique et Précision de Levallois, 1919年パリ郊外に創業)と協力関係を築きながら経営の建て直しをはかった。PZOから経済的な支援を受け、その見返りとして双眼鏡に関する技術支援をおこなったようである[参考サイト]。経営は持ち直し1920年初頭には引き続き写真用レンズや双眼鏡、小型カメラなどの市場供給を再開している。なお、1920年から1930年ごろまでE.Krauss社は東京丸の内に支社を構えていたとのことだ[参考サイト/クラシックカメラ専科]。しかし、10年後に訪れた世界恐慌で再び経営危機に陥り、1934年にフランスの光学メーカーBarbier, Benard et Turenne(BBT)社[1860年創業:注参照]に吸収合併されている。ただし、BBT社の傘下でもレンズや双眼鏡の生産は続いており、1935年前後にKrauss QuantrylやKrauss Tessarが市場供給されたという記録がある[Vade Mecum参照]。また、時期は定かではないが、E.Kraussブランドはその後BBT Kraussに置き換わり(1934年以後)、大判撮影用レンズのBBT-Krauss Apophot 60cm F10やApo-quatry 84cm F10.5、および軍事用双眼鏡などが市場供給されている。同ブランドは第二次世界大戦後も存続し、双眼鏡についてはフランス軍、スウェーデン軍、デンマーク軍などに納入されたものが中古市場に数多く出回っている。ただし、この時代まで大判撮影用レンズの製造が続いていたかどうかは不明だ。コレクターのWEBでは1955年に製造されたというBBT Kraussの双眼鏡や1957年製という顕微鏡用カメラを確認することができる。なお、ドイツのStuttgart(シュトゥットガルト)にあったG.A.Krauss社はEugen Kraussの兄弟が1895年に創業した別会社である。1924年から1934年まで自社製カメラやコンパーシャッター搭載の写真撮影用レンズを製造しており、同社のショップが1991年までStuttgartに存続していた。

[注] Barbier, Benard et Turenne(BBT)社・・・1860年に創業されたフランス企業。この会社は19世紀から照明機器を専門に扱っていたが、その後、写真用レンズの製造にも積極的に参入している。第一次世界大戦中に会社はパラボラ用ミラーとレンズの生産で発展した。1934年にE.KRAUSS社を吸収している。

今回紹介するレンズはE.Krauss社が1900年代初頭に生産したCarl ZeissブランドのUnar(ウナー)である。レンズを設計したのはTessarやPlanarの発明者として名高いCarl ZeissのPaul Rudolph(パウル・ルドルフ)博士で1899年のこと。Rudolphが1890年に開発したProtar(プロター)をベースに開発したレンズである。Unarが登場する前年の1988年にGoerz(ゲルツ)社が新型の大口径レンズCelor(セロール) F4.5/F4.8を先行発売しており、Unarの発売はCelorに対抗する意味があったと考えられる。明るいレンズを実現するためにRudolphがUnarの設計に導入した手段は光線が高い位置を通る第一レンズ(前玉)を正の凸レンズにしたことと(Protarとは正負が逆の配置)、前後群それぞれに屈折作用の異なる空気レンズを導入し、これらのパワーバランスを収差設計の自由度として利用したことである。
Unarの光学系。構成は4群4枚で、前群(上部)は屈折率差の殆ど無い2枚の重バリタ・クラウン硝子を凸形状の空気層をはさんで配置し、後群は2枚のフリント硝子を凹形状の空気層をはさんで配置。前後群とも色消し機構を備えている。前群側の凸状の空気層が光を発散させる凹レンズと同等の作用を持ち、反対に後群側の凹状の空気層が光を集める凸レンズと同等に機能する。これら屈折作用の異なる空気層のパワーバランスを収差設計の自由度として利用し、ペッツバール和を抑え、非点収差の補正を行っている。この設計技法は設計者RudolphがProtar(プロター)の開発(1900年)で発明した最初の技法(ルドルフの原理)を空気レンズによって実現したものである。Unarはその後Tessarを生み出す原型となったレンズであり、このレンズの描写にはTessarの持つ性質のよさを垣間見ることができる
Unarは前群にDialyt型レンズ、後群に旧Gauss型レンズを配置したハイブリットレンズである。前群のDialytユニットにはガラス間に設けられた空気の隙間(空気レンズ)の作用により単体で球面収差とコマ収差を補正する能力があり、ガラス硝材の選択により軸上色収差とペッツバール和も補正可能である。こうした収差設計の自由度の高さは後群の旧Gaussユニットと連携させる場合においても高い効果を発揮する。後群の旧Gaussユニットは単体としてみる場合、ペッツバール和は小さいものの球面収差の膨らみが目立つ[文献3]。この膨らみを前群のDialytユニットが持つ空気レンズの発散作用によって包括的に抑え、なおかつ前群と後群の空気レンズの屈折作用の違いを利用しペッツバール和を打ち消すことで非点収差を補正するのである[参考]。同時代に一世を風靡したDagorやCelorなどのダブル・アナスチグマートは光学系の対称性を利用したシンプルな収差設計を実現していたが、対するUnarは非対称な光学系で、収差設計もたいへん複雑になっている。
Unar-Zeiss 145mm F4.7: 重量(実測) 310g(改造部込み/レンズヘッドのみ), 絞り羽 13枚, 絞り指標(7段) F4.7,F5.6,F8..., シリアル番号 No.39152(1900-1903年頃製造), フィルター径 38.5mm前後, 真鍮鏡胴, ノンコート, 4群4枚構成(Unarタイプ), 大判撮影用。こちらのレンズはプロフェッショナルな改造が施されている




Unar-Zeiss 136mm F6.3: 重量(実測) 135g(レンズヘッドのみ), 絞り羽 11枚, 絞り指標 F6.3から6段, シリアル番号 No.39652(1900-1903年頃), フィルター径 33.5mm前後, 真鍮鏡胴, ノンコート, 4群4枚構成(Unarタイプ), 大判撮影用



E.Kraussへのライセンス供与
E.Krauss社の成功はCarl Zeissとの関わりによるところが大きい。1890年代初頭、フランス国内に存在した数多くの光学機器メーカーの中で、なぜ小規模メーカーのE.Krauss社だけがZeissからのライセンス供与を受ける事ができたのであろうか。全日本クラシックカメラクラブ主催の「フランスカメラ展」において開催された「フランスのレンズ」という題名のシンポジウムで質問してみたところ、座長と講演者の方から素晴らしい回答を得ることができた。それによると、まず創業者Eugen Kraussがドイツ人であったことに加え、ツァイスの経営者E. Abbe(アッベ)博士と親しい交友関係にあったことがKraussを成功に導いた大きな要因であったというのだ。さらに、Abbe自身の気質や懐の深さによるところも大きく関係しており、Abbeは自社の開発した製品で特許をとり利益を独占することが嫌いだったため外国企業にライセンスを供与することに前向きの姿勢であった。その徹底ぶりは自社の主任設計士Rudolph博士に特許をとらせなかったほどで、Zeissは当初自社の開発したレンズに対し一切の特許を出願していなかった。しかし、他社がZeissの開発品と同等の製品で特許を取り始め自社に多額の損害が出始めるとAbbeは考えを一変させたというのである。

参考文献
[1] A History of the Instruments Industry in Britain and France, 1870-1939,  Mari E. W. Williams
[2] A lens collector's vade Mecum, M.Wilkinson and C.Glanfield, Version 07/05/2001
[3] 「レンズ設計のすべて―光学設計の真髄を探る」 辻定彦著

レンズのシリアル番号
E.Krauss社の製品に記されたシリアル番号と製造年の対応記録は私の知る限り何処にも公表されていない。市場に出回っている製品から断片的な手がかりをつかむ以外に方法はないが、幾つか年代推定のヒントになる事例を紹介しよう。
  1. 1894年製造のStereoカメラにシリアル番号No.598xとNo.759xのE.Krauss製レンズAnastigmat Ser.iia f8が搭載されていた[Vade Mecum参照]。
  2. イタリアのコレクターがNo.153XXのレンズに対し1896年3月の製造記録があるとWEBで公表している[こちら]。
  3. カメラオークションに出品された1896-1898年頃のカメラにAnast.-Zeiss 8/136 No.240xxが搭載されている[Vade Mecum参照]。
  4. E.Krauss製Planar(シリアル番号No2892x)が1899年に製造されている[Vade Mecum参照]。
  5. Zeissは1899年から1900年にかけてレンズ名を段階的にAnastigmatシリーズからProtar / Unar等の個別名称に置き換えていった。E.Krauss製レンズの名称もこれに連動して置き換わっている可能性がある。その事を裏付ける情報がVade Mecumに掲載されており、1901年刊行のBritish Journal of Photography Almanac P.1514にはE.Krauss製品でUnarの名称が記されたレンズが登場しているとのこと。一方、カメラ・オークションに出品されたBoulade Stereo Alpineというカメラ(1900年製と記載)にはE.Krauss製のAnastigmat Series IIIa 9/75が搭載されていたという。また、eBayに出品されたシリアル番号No.286XXのレンズにはE.Krauss Anastigmat Zeissの記銘があり、No.329xxのレンズにはE.Krauss Protarの記銘が見られる[spiralが確認]。さらに、オーストリアのLeica Shopが主催するカメラオークションに出品されたE.MAZOというカメラに搭載されていたシリアル番号No.345XXのE.Krauss製レンズはProtar銘であった。オークションではこのカメラの製造年(発売年?)が1900年と記載されている。これらを総合すると、シリアル番号No.29000-32000辺りのロットが1900年台初頭に製造された製品個体であると推測することができる。
  6. 1903年製とみられるE.Krauss製カメラのTakyrにE.Krauss製Tessar 6.3/145 No.551XXが搭載されていた[Vade Mecum参照]。
  7. 1907年から製造されたPhoto-Amateur Photo-AmateurというステレオカメラにE.Krauss製Tessar(No.639XX)が2本装着されている[参照]。
  8. Jumelle Stéréo Panoramiqueというステレオカメラ(1900-1910年製造)にE.Krauss製Tessar(No.6019XとNo.6017X)が装着されている。同じカメラにE.Krauss製Tessar(No.678XXが2本)搭載されていたという別の記録もある。このことからNo.678XXは1910年までに製造されていると考えられる[参照]。
  9. Debrie Parvoという1919年製造のカメラにNo.1163XXのTessarが搭載されている。こちらを参考にした。かなり詳しいサイトのようであるが製造年についての根拠は示されていない。ただし、前後関係に整合性はあるので確かな情報として採用した。
  10. eBayに出品されたコンパーシャッター(No.5001xx/1922年製)つきE.Krauss製tessarのシリアルナンバーがNo.1299XXである。コンパーシャッターのシリアル番号・年代対応表は公開されているので、ほぼ間違いない情報と判断できる。
  11. eBayに出品されたLE PHOTO-REVOLVER (1920年発売)にKrauss Tessar No.1342XXが搭載されていた。上の10下の12との整合性を考慮すると1922年から1924年の間の製造ロットであろう。
  12. 1924年頃製造された小型カメラekaの何台かには、どれも共通してシリアル番号14XXXX台のE.KRAUSS製TESSARが搭載されている。
  13. シリアル番号158XXX台のテッサーにはE.Kraussの社名が記されているが、182XXX台のレンズにはBBT-KRAUSSの社名が使われている。E.KraussがBBT社に吸収されたのは1934年のこと。双眼鏡コレクターの解説ページによると、BBT-Kraussの双眼鏡が登場したのは1935年頃とのことなので、レンズがBBT Kraussのブランドにかわったのもこの時期であろう。
以上の1から13までの断片情報をまとめると、E.KRAUSS/BBT KRAUSSのシリアル番号と製造時期について下記のような対応関係(推測)を得ることができる。
  1. 1894年 No.759X
  2. 1896年 No.153XX
  3. 1896-1898年 No.240XX
  4. 1899年 No.2892X
  5. 1900年 No.29XXX - 32XXX
  6. 1903年 No.551XX
  7. 1907年以後 No.639XX
  8. 1910年以前 No.678XX
  9. 1919年 No.1163XX
  10. 1922年 No.1299XX
  11. 1923年前後 No.1342XX
  12. 1924年 No.142XXX
  13. 1935年前後 No.16XXXX - 18XXXX
上記のデータは確証性の乏しい断片情報の寄せ集めである。整合性に注意を払いまとめているとはいえ、どれほどの精度を実現しているのか全くわからない。あくまでも目安程度の参考資料と考えてほしい。1914-1919年は第一次世界大戦中なので企業活動は停滞していたと思われる。開戦前の1910年前後の情報が非常に少なく、この時期のデータは確証性が乏しい。何か手がかりになる情報があればご教示いただけると幸いである。修正依頼は随時受け付けているので、掲示板に書き込んでいただくかプロフィール欄に公表しているメールアドレスでご連絡いだだきたい。
■幾つかの不整合情報

  • ロンドンの有名なオークションのCHRISTIES'S(こちら)に出品され2720ドルで落札されたフランス大手映画制作会社パテの所有していたシネマ用カメラ(PATHÉ CINEMATOGRAPHIC CAMERA)にE.Krauss tessar #1252XXが搭載されていた。CHRISTIES'Sの鑑定によるとカメラは1910年頃の製品とのことである。ただし、レンズに関しては上記のシリアル番号表に照らし合わせた製造年代と整合しない。おそらくパテ社で酷使され修理等でその後レンズが交換されているのであろう。
  • Leica Shopのカメラオークション(こちら)に出品されたAndre Debrieというカメラ(1908-1913製造レンズ固定式)にE. Krauss Tessar 5cmF3.5 (No. 1391XX)が搭載されていた。こちらも上記のシリアル番号表と整合しない情報なので採用していない。

M42マウントへの変換
大昔の大判撮影用レンズは基本的にヘリコイド機構の省かれたレンズヘッドのみの製品である。一眼レフカメラやミラーレス機の交換レンズとして用いるには簡単な改造を施しフォーカッシング・ヘリコイドに搭載する必要がある。Unar 136mm F6.3はマウント部が39mm径前後のスクリューネジとなっているので、少しきついがM39mm-M42mmステップアップリング(写真の赤の矢印)を強引に装着することで、M42フォーカッシングヘリコイド(中国製の35-90mmタイプ)に搭載している。フランジ長が不足している分はマクロエクステンションチューブを継ぎ足すことで対応し、ほぼ正しく無限遠のフォーカスを拾うことができた。Unar 145mm F4.7の方は入手時に既にプロフェッショナルな改造が施されM42ネジに変換されていたので、このままM42フォーカッシングヘリコイドに搭載し使用した


入手の経緯
今回取り上げる2本はUnarのファンであるlense5151さんからお借りしたレンズである。借用するにあたりlense5151さんからE.Krauss社に関する情報と同社のレンズのシリアル番号について調査してほしいとリクエストされている。借用したレンズはどちらも経年のわりに状態の良好な個体であった。F6.3のモデルの相場は200ドル程度、明るいF4.7のモデルの場合はもっと高価とのことだ。もちろんM42フォーカッシングヘリコイドやステップアップリングなどは別途購入する必要がある。lense5151さんの今回のリクエストはハードルが高く、海外の文献を当たっても同社に関する情報は全くみつからない。大ピンチだ。

撮影テスト
大判撮影用に造られたレンズは大きなイメージフォーマットの全画面を均等に描写する目的で設計されており、中心部の性能(解像力)を落としても全体のバランスを重視するよう最適化されている。小さなイメージフォーマットのカメラで撮影する場合にはレンズの中央部のみを使用するため、一般に中央から四隅にかけて画質の均一性が過剰に高くなるもののセッティングが最適ではないため、レンズによっては中心部の解像力が奮わない。また、大判撮影用レンズはイメージサークルが過剰に大きいため、ミラーボックス内における内面反射光の発生がコントラストや発色などの階調描写性能に少なからず影響を及ぼす。大判撮影用レンズは大判カメラで使ってこそレンズ本来の性能を発揮できるという教訓はこうした意味からきているのであろう。唯一の救いはレンズの中央部のみを使用するため、収差量が絞りを数段閉じた場合と同等になるという点である。大昔の大判撮影用レンズを本来の規格よりも小さなフォーマットのカメラで使用する場合には、こうしたハンデがあることを認識しておいた方がよい。

CAMERA: EOS 6D
ACCESSARY: 望遠メタルフード(フィルター径40.5mm) + ICTT(Image Circle Trimming Tool)

UNAR 145mm F4.7:20世紀初頭に製造されたレンズとは到底思えない素晴らしい描写性能である。ピント部は四隅まで充分な解像力があり、フルサイズ機による限定的な評価になるが、中心部と周辺部の画質差は殆どみられない。ノンコートレンズのためコントラストは高くはないが、かと言って軟調過ぎることはなく曇天時でも適度なコントラストである。晴天時においてもコントラストは強くなり過ぎずシャドーへの落ち方がなだらかで目に優しい描写傾向を維持している。発色はややあっさりしているが淡白すぎず適度な色のりである。カラーバランスはノーマル。ハロやコマは同時代の他のレンズと比べ格段に少なく、開放で中距離以上の遠方を撮影する場合のみハイライト部の周りに薄いコマが出る。ただし拡大しないとわからない絶妙なレベルで、むしろこのくらいの収差を残したほうが柔らかく線の細い繊細な描写を実現できる。面白いことに近接撮影ではコマがほぼ収まり、コントラストやヌケは良好でシャープネスも向上する。やや収差変動(撮影距離に応じた収差の性質変化)が大きいのだろう。反対に風景などの遠距離撮影では絞って撮ることが基本なのでコマとは無縁。コマの影響/効果が顕著に現れるのは中距離のポートレート撮影に限られ、絞りを開放にすると人物などが柔らかく写る。ボケは安定しており後ボケは柔らかく綺麗な拡散である。乱れや崩れはなくグルグルボケの発生も検出できない。
 Unarの描写性能は19世紀初頭のレンズの中でも飛びぬけて優秀である。その後、Tessarが登場することでZeissのラインナップから消滅する運命にあるものの、中距離撮影時に発生するコマを悪者扱いさえしなければ、Tessarと比べ何ら遜色の無い素晴らしい性能のレンズである。
Unar-Zeiss 145mm F4.7 @ F4.7(開放) + EOS 6D(ISO1600 / AWB): 近接撮影で開放絞りにて撮影。コントラストは良好でヌケもよい。中央部を拡大表示したものが次の下の写真である

上の写真の一部を拡大表示させたもの。解像力はかなり高く、コマやハロはほとんどみられない
Unar 145mm F4.7(開放) + EOS 5D2(AWB): マクロ撮影にも使用できる優れた性能だ。近接撮影・開放絞りでここまで写る大昔の古典鏡玉はそう滅多にないのではないか

Unar-Zeiss 145mm F4.7 @ F4.7(開放) + EOS 6D(AWB): 開放で中距離以上の遠方を撮影する場合のみハイライト部の周りに薄いコマが出る。ただし拡大しないとわからない絶妙なセッティングである。メインの被写体を拡大表示したものが次の下の写真である
上の写真の一部を拡大表示させたもの。女性を綺麗に撮るにはコマはむしろ好都合
Unar-Zeiss 145mm F4.7 @ F4.7(開放) + EOS 6D(ISO1600 / AWB): 中距離で開放絞りにて撮影した結果。階調変化はなだらかである。発色はノーマルでコントラストも良好だ。中央部を拡大表示したものが次の下の写真である



上の写真の一部を拡大表示させたもの。やはりハイライト部のまわりにモヤモヤと僅かなコマが出ている様子がわかるが、この程度ならコントラストを顕著に損ねることはない。巧みな収差設計である





Unar 145mm F4.7 @ F11 + EOS 6D(AWB): 今度は遠景をうつしたもの。絞り込んでも階調には適度な軟らかさがある。中央部を拡大表示したものが次の下の写真である


上の写真の一部を拡大表示させたもの。このレンズの高い解像力を垣間見ることができる

Unar 145mm F4.7 @F4.7(開放) + EOS 6D(ISO1600, AWB): 



Unar 136mm F6.3画質は四隅までとても安定しており中央部との差は殆どみられない。ボケにも安定感があり四隅まで乱れは殆ど無い。ただし、先のUnar F4.7とはかなり異なる描写設計のようで解像力はピント部中央でも高くない。大判撮影で使用する分には圧縮効果が働き、このくらいの解像力でも本来は充分な写りなのだろう。中央の解像力をやや犠牲にする代わりに画角特性 (四隅までの画質の均質性)を最重視した設計なのではないだろうか。コマはあまり出ないようだが内面反射に由来するフレアがかなり出やすく、階調描写のコントロールに四苦八苦する。基本的にとても軟調で淡白な発色なので露出をアンダーに設定しシャドー側に引っ張り込むことで色濃度を向上させる。すると今度はハイライト側の階調描写に粘りが足りず、発色が濁ってしまいクリアな画にならない。なかなか使いこなすのが難しく、露出がオーバー過ぎると発色が褪せてしまい、反対にアンダー過ぎると濁りがでてしまうというヒステリックな性質に悶えことがしばしばある。しかし、露出がピタリとはまると、とても不思議な色合いになるのがこのレンズの持ち味のようである。

Unar 136mm F6.3@F8+ICTT + EOS 6D(AWB): 解像力は高くはない。コマはあまり出ないようだ。軟調な写りが持ち味のレンズである

Unar 136mm F6.3@F8 +ICTT+EOS 6D(AWB): 深いフードを装着しイメージサークルもトリミングしているが、それでもフレアっぽく写る。後ボケは綺麗だ

Unar 136mm F6.3@F11+EOS 6D(AWB): シャドー部に濁りが入り、紫がかったような独特の写りになっている














Unar 136mm F6.3@F8 +EOS6D (AWB): 空が入らなければフレアは防げる。不思議な発色だ。人相はレタッチでいじって別人になっているが、ちょっとやり過ぎだ・・・


Unar 145mmは線の細い繊細な描写を実現したレンズであるが、このような特徴をもつレンズが20世紀初頭に既に存在していたのは、とても驚きである。よく知られているように「線の細い描写」とはコマなど僅かな収差の発生を容認することで解像力の極みに至る、言わばオーバードライブ的なチューニング技法の産物である[文献3]。「柔らかいが芯のある描写」など一見矛盾をはらんだ表現で紹介されることもある。収差設計的には球面収差をややプラス側へと過剰に補正し、中間部の膨らみを削ることに相当する。70年代の日本の光学メーカーが好んで採用した描写設計だ。このチューニング法が理論的に認知されるようになったのはMTF曲線によってレンズの特性を表現する方法の広まる20世紀中頃以後だったはずである。解像力を極めるには収差を僅かに残存させなければならない。恐らく元々はレンズ設計者が日々チューニングを繰り返す中、手探りによって突き止めた極意のようなものだったのであろう。

[文献3] アサヒカメラ 2013年4月号 P246 「Q&A:線の細いレンズ、太いレンズとは?」